- 建保5年(1217年)醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。
- 元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。
- 嘉禎元年(1235年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。
- 嘉禎2年(1236年)覚盛(かくじょう)、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒[1]。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。
- 暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。
- 仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。
- 仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。
- 仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。
- 寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。
- 寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。
- 寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
- 寛元4年(1246年)道明寺で授戒をおこなう。
- 寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。
- 建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。
- 建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。
- 建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。『聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。
- 建長7年(1255年)円仁が唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。
- 正嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。
- 文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。
- 弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。[2]
- 弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。[3]7月に西大寺へ帰る。弟子の性海『関東往還記』に詳しい。
- 文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。
- 文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる。
- 文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。
- 文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
- 文永10年(1273年)蒙古襲来に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。
- 文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。
- 文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。
- 建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。
- 弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
- 弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)
- 弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。
- 弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。
- 弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当[4]に就任する。
- 弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。
- 正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。
- 正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。
主な活動 [編集]
授戒・聖徳太子信仰・文殊信仰・真言密教(光明真言)などの宗教行為による殺生禁断・慈善救済・宇治橋の修繕[5]などを行い、非人・らい病者から後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇に至るまで貴賎を問わず帰依を受けた。
60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた(その時の記録が、随行の弟子性海(しょうかい)による奈良から鎌倉への約半年間の旅・滞在記「関東往還記」(かんとうおうげんき、または、−おうかんき)である)。国分寺や法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきた尼への授戒を開いた。晩年の弘安5年(1282年)に、四天王寺別当の地位を巡って天台座主(延暦寺)の最源と園城寺長吏の隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受け両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。著名な弟子に忍性・信空などが居る。
一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生のためにまず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあった。
一方で叡尊自身も慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、戒律に対する考えの違いもあり日蓮から「律国賊」と批判された。
日本律宗の祖である鑑真が「四分律」を奉じたのに対して、叡尊は真言宗を開いた空海が重んじた「十誦律」を奉じている。同時に戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において、社会活動や布教に熱を入れすぎ、教学が疎かになっているのを「慈悲ニ過ギタ…」と[6]窘(なだ)めたり、元寇に際しては西大寺や四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷や鎮護国家の密教儀式を行っている。
著述に「感身学正記」、「興正菩薩御教誡聴聞集」、「表無表章詳体文集」、「梵網経古迹記輔行文集」などがある。
主な文献 [編集]
- 細川涼一訳注 『感身学正記.1 西大寺叡尊の自伝』(平凡社東洋文庫全2巻、1999年)、※2巻目は未刊、刊行時期未定。
- 細川涼一訳注 『性海 関東往還記』(平凡社東洋文庫、2011年)、校訂原文入り
- 田中久夫校注 『興正菩薩御教誡聴聞集』、(「日本思想大系15 鎌倉旧仏教」所収、岩波書店 初版1971年、新装版1995年)
- 長谷川誠注解・訳 『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』
西大寺刊、1990年、没後700年記念出版(現代語訳入り)。
- 松尾剛次 『救済の思想 叡尊教団と鎌倉新仏教』 (角川書店[角川選書]、1996年)
- 松尾剛次編 『持戒の聖者叡尊・忍性 日本の名僧10』 (吉川弘文館、2004年)
ISBN 4642078541
- 和島芳男 『叡尊・忍性』 (吉川弘文館[人物叢書]、初版1959年 新装版1988年)
- 図録 『奈良西大寺展 興正菩薩叡尊七百年遠忌記念』 奈良国立博物館編、(205頁、西大寺・日本経済新聞社共催、1990-91年)
- 図録 『興正菩薩叡尊 生誕八百年記念特別陳列』 (47頁、奈良国立博物館で2001年12月に開催)
※以下は専門文献での論考
- 松尾剛次 『中世律宗と死の文化』(吉川弘文館、2010年)
- 追塩千尋 『中世の南都仏教』(吉川弘文館、1995年)
- 中尾堯 『中世の勧進聖と舎利信仰』(吉川弘文館、2001年)
- 蓑輪顕量 『中世初期南都戒律復興の研究』(法蔵館、1999年)
- 中尾堯、今井雅晴編 『重源 叡尊 忍性 日本名僧論集5』 (吉川弘文館、1983年)、論考6篇(時期は戦後)を収む
脚注 [編集]
- ^ 「律学の研鑽は行なわれても、すでに戒師の存在は地を払って皆無の状態であったから、律宗復興の基本的な前提として、まず比丘僧と名づけることのできるものがどのようにして得られるか、そこに焦点がしぼられ、その唯一の方法として、『自誓』という手段が取られたものである。」(石田瑞麿、「叡尊の戒律について」、『重源・叡尊・忍性 日本名僧論集 第5巻』 吉川弘文館)に所収、なお他に5編の論考がある。
- ^ 数年前から天変地異が頻発し飢饉疫病が流行していたが、それを祈祷により鎮めるべき役割を担う僧侶は鎌倉の地においては破戒念仏僧や他宗誹謗の法華僧らが横行していた。こうした仏法を是正するためには戒律によるしかないと鎌倉の為政者が考えたものと思われる。
- ^ このとき北条時頼から西大寺援助のための布施や寺領寄進の申し出があったが決して受けず、断固として為政者の資縁を拒否し続けた。
- ^ 長年にわたり山門派と寺門派が別当職をめぐり争っていたが、鎌倉期とくに元寇を機に太子信仰が高まってくると、別当として「世一の僧」(最も勝れた僧)が求められるようになり叡尊の就任に至ったと考えられる。
- ^ 修理の際に宇治川の網代を破却して漁師に殺生を止めさせ、代わりに布を川に晒す作業を職業として与えたという。
- ^ 忍性は師の叡尊が、当時の仏教観で救済されない非人救済に専念する余りに一般民衆への救済が疎かとなり、また救済に差をつける事で却って非人への差別観を助長することを危惧して、非人を含めた全ての階層救済を目指した。また、権力との距離に対する考え方にも違いがあったと言われている。
真言律宗の祖。窮民救済に尽力
中世南都で戒律を提唱し、大和国(奈良県)西大寺を中興した真言律宗僧。三十四歳で「戒を守らなければ仏子ではない」と思い立ち三十六歳の時、貞慶の建てた律院に住していた僧らとともに、東大寺で自ら誓って戒を受けた。戒律護持と殺生禁断を説いて朝野に尊崇され、元寇のおりには「兵船を本国に吹き送り、来る人をそこなわずして乗るところの船をば焼きうしなわせたまえ」と、殺人ではない祈祷を行った。宇治橋の網代を破却して漁を禁止するなど、日常生活でも広く活動し、九十歳で亡くなった。
叡尊が戒律を守り実行するのは、「興法利生(法を興し衆生を利益する。)」のためには、釈尊の定めた戒律を修行することが最も重要なことだからである。彼は文殊菩薩の信仰にもとづき、生涯にわたって非人やハンセン病患者などの救済事業を行った。
六十九歳の時には、奈良・般若寺に文殊菩薩像を奉納し、非人供養を行う。中世のハンセン病患者は頭に白布で包み、寺社付近で物乞いをして生活していた。叡尊は、般若野(奈良県)で十列並ばせた非人ら二千人に、彼らのための「頭(かしら)包みの布」をはじめ、物乞い道具である袋に入れた米、檜笠や筵、うちわ、朝鍋、針と糸など、生活のための必需品を施した。叡尊ら律僧は彼らに戒を授け、非人を文殊菩薩と見立て、音楽を合奏しながらそのまわりを廻ったという。
この供養の時、叡尊はいう。「切なる哀情によって、永久に供養したいと願っても、現実には彼らの鉢は空っぽである。この施しは一日の糧にも堪えない」と。施しの限界を知りながら、「施者も受者も平等に貪欲を離れ、禅悦の味を嘗めんことを願う」ところに、律僧が目指した慈悲の一つのかたちが見える。
亡くなる六年前、八十四歳での雨乞いで叡尊は、「本より浄土に生まれんとも願わず、都率(弥勒菩薩の都率天)に生まれんとも願わず。ただ衆生の安楽を以って本意と為し、すべて私無し」と言い切った。浄土でないこの世でこそ、苦しむ人びとを救おうとした叡尊の面目である。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より
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