仏師名

ふりがな

じっけい

実慶

生年(西暦)

( )

歿年(西暦)

( )

別名

生涯の業績

実慶は、奈良興福寺を本拠とした奈良仏師「慶派」に属した仏師で、建久11901198の末頃に桑原の阿弥陀三尊像を、承元四年(1210年)修禅寺大日如来像の造立にたずさわりました。その製作期間から考えると、当時関東に在住し、仏像の需要に応じた活動をしていたと想定されている。
 「慶派」は、多くの功績を築いた康慶・運慶父子から、一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことからそう呼ばれている。実慶は康慶の弟子で運慶と同年代と推測され、その中でも卓越した技術と力強い作風の「運慶」と絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られている。

「かんなみの仏の里美術館」の解説より

 実慶は、奈良興福寺を本拠とした奈良仏師「慶派」に属した仏師で、建久(11901198)の末頃に桑原の阿弥陀三尊像を、承元四年(1210年)修禅寺大日如来像の造立にたずさわりました。その製作期間から考えると、当時関東に在住し、仏像の需要に応じた活動をしていたと想定されている。
 「慶派」は、多くの功績を築いた康慶・運慶父子から、一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことからそう呼ばれている。実慶は康慶の弟子で運慶と同年代と推測され、その中でも卓越した技術と力強い作風の「運慶」と絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られている。
 実慶という名前は、寿永二年(1183)に記された国宝の「運慶願経」の第八巻結縁者の中に、快慶らと並んで記されており、慶派でも名の通った仏師とみられていましたが、その作例は未発見でした。
 また函南町桑原薬師堂の木造阿弥陀如来と両脇侍の胎内からも実慶の墨書が確認されたことから、東国で活躍した仏師であったことが想像できます。
「福地山 修禅寺」HPより

私 の 想 

 運慶の東国への進出で共に奈良、京都から遣って来た慶派一門の内の一人なのだろう。棟梁の運慶が関東を離れた後も関東に残り、仏像の需要に応じて製作したものなのだろう。

作品

所蔵寺院

仏像名

制作年号(西暦)

瑞林寺

地蔵菩薩坐像

治承元年(1177)

函南の仏の里美術館

阿弥陀三尊像

建久(11901198年)

修禅寺

大日如来坐像

承元四年(1210)
庚午八月二十八日