僧侶名

 じょうけい

貞慶

生年(西暦)

(1155)

歿年(西暦)

(1213)

幼名

別名

生涯の業績

 戒律復興に尽力。「興福寺奉状」で法然批判

 鎌倉時代の南都(奈良)旧仏教を代表する僧。藤原信西(俗名通憲。平治の乱により平治元年(1159))を祖父に持つ学者の家に生まれる。八歳で法相宗・興福寺に入って以来、エリート学僧の未来を約束され、かつ嘱望された。関白の九条兼実は、彼の説法を聴いて「ほとんど神と謂うべきか。尊ぶべし、尊ぶべし」と讃嘆している。
 しかし貞慶は、虚しい名利を争う寺院社会を見限り、三十九歳で笠置山(京都府)に隠遁した。笠置寺の本尊は、法相宗教学の源である弥勒菩薩であり、笠置曼荼羅に描かれる十三重塔の主尊は釈迦仏である。貞慶は、この世では釈迦仏や法相擁護の春日明神をはじめとする多くの神仏に照覧されて心を浄め、死後は弥勒菩薩のもとで修行を積み、阿弥陀仏の極楽へ往くことを望んだ。彼は法然批判の書「興福寺奉状」を書いているが、多くの神仏に照覧されて歩もうとする貞慶にとって、法然のように阿弥陀仏一仏のみへの信仰を選択することは、神仏の否定につながる耐え難い行為であったと思われる。
 隠遁後の貞慶は、「乞食や非人(中世の非人はハンセン病患者を含む)が門に来ても何も施さず、彼らに憎まれ厭われる。鳥や雀、犬や鼠が食物を求めても情を棄てて慈悲もない、発心修行の志を内心でも行動でも裏切ってばかりいる」と自らを懺悔して、「仰ぎ願らくは三宝神祇、愚意を哀愍して道心を発さしめたまえ」(「愚迷発心集」)と発心をひたすら神仏に請うている。こうした懺悔は法然や親鸞の告白を思わせるが、貞慶は他力信心へは決して向かわない。あくまでも迷える自己が発心し、修行することによって、いつか成仏することを信じる。
 彼は当時廃れて、いた戒律の復興をめざして、亡くなる前年に律院を建てた。その願書には「たとい不清浄の僧侶と雖も、もし一人二人法を知る人あらば、随分の勝縁なり。あに虚しかるべきや」と記されている。
 迷える自己を凝視し続けながら、今ここから、はるかな一歩を自ら歩みだそうとするその精神が、貞慶の魅力である。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より

 鎌倉前期に活躍した貞慶(11551213)は、興福寺の学僧として活動した後、笠置寺、さらに海住山寺へと移り住みました。戒律を重視し、仏教の再生や、由緒ある寺々の復興に大きな貢献をした貞慶の関連作品を一堂に展示します。
「御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶 鎌倉仏教の本流」パンフレットより
神奈川県立 金沢文庫 2012年

私 の 想 い

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制作年号(西暦)