仏師名

ふりがな

じょうちょう

定  朝

生年(西暦)

( )

歿年(西暦)

天喜五年(1057)

幼名

平等院の阿弥陀如来坐像で有名。寄木造りの創始者である。

別名

生涯の業績

○ 寛仁四年(1020
       法成寺無量寿院で丈六阿弥陀仏九躯、脇侍の観音・勢至菩薩、
       四天王像等を父康尚のもとで造る。

○ 治安二年(1022
              法成寺金堂及び五大堂に安置する大日如来像他計十六躯を造り、
              これにより法橋に叙される。仏師として僧綱位を受けた初例。

○ 治安四年(1024
              法成寺薬師堂の七仏薬師、日光・月光、六観音を造る。

○ 万寿三年(1026
              中宮威子の出産祈祷にため等身の仏像二十七躯を大仏師21人、
              小仏師105人で造る。

○ 万寿四年(1027
              三尺の阿弥陀如来を造る。

○ 長元九年(1036
              後一条天皇崩御後の仏寺のための造仏。

○ 長久元年(1040
              後朱雀天皇の念持仏として純銀製一尺の薬師如来像を造る。

○ 長久二年(1041
              花宴のため龍頭鶴首(りゅうとうげきしゅ)船の龍頭を造る。

○ 永承三年(1048
              興福寺造仏により法眼に叙される。○ 天喜元年(1053
              宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像等の造仏を行う。
              平等院は道長の子、関白左大臣頼通が宇治の別業に建築した寺で、
              定朝の現存する唯一の作品。

○ 天喜二年(1054
              以前に京都西院邦恒堂の丈六阿弥陀如来像を造仏する。
       西院邦恒堂は、藤原邦恒(9861067)が、西院の領所に営んだ阿弥陀堂
       で、
白河上皇が臨幸に際し、尊容満月の如し評され、その後仏師院朝
       が
造仏の参考とするため細部の採寸を行うなど、仏の本様として
              永く仏像彫刻の規範となった。
        定朝はこの他、薬師寺庫院八角円堂の丈六釈迦像、六波羅蜜寺等身地蔵
       像なども造ったとされ、天喜五年に没している。

私 の 想 

 一人で制作していた一木造りの仏像を、部品を組み合わせる方式の寄木造りに変えた人である。ひび割れを防ぎ、大量生産に答える方式を確立した人である。造像の需要が高まり、材料も簡便な木材に代えて、多人数で一つの大きなものを造ることが出来る方式である。これで飛躍的に平安時代の仏像生産が増えたのである。

作品

所蔵寺院

仏像名

制作年号(西暦)

京都・平等院鳳凰堂

阿弥陀如来坐像

天喜元年(1053

京都・六波羅蜜寺

地蔵菩薩立像