僧侶名

もんが

文覚

生年(西暦)

(1139)

歿年(西暦)

(1203)

幼名

別名

生涯の業績

 頼朝決起をうながした荒法師

山城国(京都府)の神護寺を復興した真言宗の僧。「平家物語」によると、遠藤盛遠という武士であったが、横恋慕して人妻を殺害し、懺悔のため出家したとされる。
 当時荒廃していた神護寺の復興を決意し、後白河院に強訴したため、院の怒りにふれ、伊豆に流された。伊豆で源頼朝に平家追討の決起をうながし、鎌倉幕府成立に大きく貢献したとされる。頼朝の後援により神護寺を復興し、文治六年(1190)には後白河院を神護寺に迎えている。神護寺に寄進された多くの荘園を基盤に、東寺・西寺など空海ゆかりの寺院の修繕・復興を推進したが、頼朝・後白河院が相次いで亡くなった後、後鳥羽院と対立し、二度にわたる流罪の後、鎮西で亡くなったとされる。
 明恵は孫弟子にあたり、文覚は期待をかけていたようだが、明恵自身は意識的に距離を置いていたように見える。没年は一般に建仁三年(1203)とされるが、明恵関連資料では、この年以後も生きていたように見え、没年については検討の余地がある。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より

私 の 想 

関係作品

所蔵寺院

仏像名

作者

制作年号(西暦)