僧侶名

 みょうえしょうにん

明恵上人

生年(西暦)

承安三年(1173)

歿年(西暦)

寛喜四年(1232)

幼名

別名

生涯の業績

多彩な実践を展開した孤高の僧

 鎌倉時代初期の真言宗の僧。諱は初め成弁、壮年期より高弁。武士の子であったが、父母の死により、母方の親族である上覚房行慈のもとで出家した。行慈は、神護寺を復興した文覚の高弟であり、明恵も神護寺で修行し、仁和寺や東大寺などで華厳宗を学んだ。修行中、自らの姿を醜くするため、耳を切ったことは有名である。紀州に隠遁し、修行と学問に専念したが、文覚や上覚からは後継者として期待され、去就に苦慮している。釈尊思慕の余り、天竺に渡ろうとしたが、春日明神からの託宣により断念した。南都の貞慶らと交流し、そこから後鳥羽院や九条兼実らとの関係が生まれ、すぐれた密教行者として祈祷を依頼されている。建永元年(1206)、山城国(京都府)栂尾の高山寺を神護寺の別院として与えられるが、しばらくは賀茂にいることの方が多かった。

 独自の修行を確立
 法然の「選択本願念仏集」が出版されると、「摧邪輪」を著し、法然が菩提心(仏の悟りを求める心)を極楽往生の条件としていない点を批判した。して、自ら菩提心礼拝の修行を創始している。その後、中国華厳経の宗密や李通玄(独自の華厳思想を説いた在家仏教者)らの影響を受け、「仏光観」と呼ばれる観想法を作り上げた。これは、「華厳経」の所説をもとに、仏の身体から出る光を観想し、それによって「空」の境地に入るというものである。また、この観想法は、密教における光明真言と一致するものと考えられ、晩年の明恵はもっぱら光明真言の普及に精力を注いでいる。
 承久の乱(承久三年(1221)の時、後鳥羽上皇の兵を匿い、北条泰時(後に鎌倉幕府第三代執権。在職(122442))に抗弁したというエピソードは事実ではないが、この戦乱で夫を失った夫人たちが明恵のもとで尼になっている。承久の乱を契機に、賀茂を引き払い、高山寺に定着すると、以後、明恵の関心は、光明真言の普及と、戒律の護持に向けられるようになる。毎月二回の説戒会には、結縁のため多くの人が集まり、ごった返していたと藤原定家は記している。
 生涯にわたり夢を記録したことで有名で、中世人の内部を探る稀有の資料となっている。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より

私 の 想 い

関係作品

所蔵寺院

仏像名

作者

制作年号(西暦)

東大寺指図堂

高山寺

高山寺

高山寺

釈迦如来坐像

善妙神立像

白妙神立像

明恵上人坐像

善円

湛慶

湛慶

嘉禄元年(1225)

嘉禄元年(1225)、

嘉禄元年(1225)、