僧侶名

ちょうげん

重源

生年(西暦)

(1121)

歿年(西暦)

(1206)

幼名

別名

俊乗坊、上人

生涯の業績

 鎌倉時代の東大寺再建事業を推進した僧。紀長谷雄の子孫季重の子。はじめ醍醐寺に入り、真言を修め俊乗坊重源と称した。安元二年までに三度の入宋を果して、宋代の新知識の流入をはかった。また治承四年の東大寺炎上にあたり、年六十一歳で造東大寺勧進職に補せられ、諸国を勧進して廻り、東大寺再興のために活躍した。彼の造寺造仏活動は、自ら記した「南無阿弥陀仏作善集」に詳しい。
「日本の仏教を築いた人びと−その肖像と書−」奈良国立博物館 1981年

東大寺復興を任された大勧進聖

 紀氏の出身で、十三歳の時、真言宗の山城国(京都府)醍醐寺で出家した。その後、四国から近畿、北陸へと山林修行を行う一方で、「法華経」の写経も盛んに行った。その他、喜捨を募って大規模な造寺造仏や書写供養、架橋が各地で行われた際、その勧進活動にも従事した。宋に三度渡ったとされ、そこで民間の熱烈な浄土信仰に出会い、専修念仏の影響を受けた重源は帰国後、念仏信仰に傾倒していく。さらに、信濃国(長野県)の善光寺を訪れた重源はそこで霊験を得て、高野山に念仏三昧を行う専修往生院を構える。
 治承四年(1180)、南都の寺院が平氏によって焼き払われ、翌年、重源に東大寺復興の宣旨が下された。すでに六十一歳という高齢に達していたものの、重源は四年後、文治元年(1185)に、新しい大仏様という技術を駆使した大仏殿をはじめとする東大寺の伽藍を見事完成させた。密教と舎利信仰、念仏信仰を身上に「作善」と称して多くの社会事業を行った重源は、建永元年(1206)に東大寺で八十六歳の生涯を終えた。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より

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