仏師名

ふりがな

うんけい

運  慶

生年(西暦)

不詳( )

歿年(西暦)

貞応二年(1223)

幼名

康慶の息子で親の後を継ぎ鎌倉時代の大仏師

別名

生涯の業績

 運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である。長男湛慶が承安三年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。
 運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来像である。寿永二年(1183年)には、以前から計画していた法華経の書写を完成した。
 この法華経は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人像、国宝)。経の奥書には、後に仏師として活躍することの知られる者を含む、名に「慶」字を用いる結縁者名が記されている。このことから、奈良仏師の中で、康慶の一門が「慶派」と呼ぶべき一派を成していたことがわかる。
 治承四年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当することとなった。
 成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊を造るため鎌倉に下向した。
 一方、運慶は文治二年(1186年)正月に興福寺西金堂本尊釈迦如来像を完成したあと、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年53日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている。
 また、その三年後、文治五年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。
 願成就院の仏像は、平安時代後期の仏像とは隔絶した、めざましい作風を示している。平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであったが、分業制で同じような仏像を量産した結果、無個性でマンネリ化した作風に陥っていた。
 対して運慶の作風は、仏像の男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などに特色があり、こうした作風が東国武士の好みに合致したものと推察される。
 運慶は、奈良に当時多く残っていた仏像の古典作品を研究し、独自の作風を切り開いたものであろう。それが願成就院諸像で開花したのは、定朝様の規範に制約されない、東国の武士発願の造像であったからと理解される。
 建久七年(1196)には康慶、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像は、その後大仏殿とともに焼失して現存しない。現存する大作としては、建仁三年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いて、わずか二か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。
 承元二年(1208)から建暦二年(1212)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と、無著・世親像を造っている。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。
 最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保四年(1216)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像を造った。

私 の 想 い

 朝廷や公家を中心とした宮廷社会から武家社会への転換を一早く読み取り、東国に進出して武家からの注文で仏像制作を始める。
 受注先を変えることで、新しく得意先を増やし、新しい市場に受注先を拡げて行く。仏教は上流社会中心から、広く庶民へと方向転換を加速させました。これに呼応するように、この時代に多くの仏教指導者が輩出されました。仏教の庶民化への先駆けを努めたといってもいい人である。運慶が時代の寵児に、成り得た賜物である。
 得意先が代わるということでは、私の生きた時代では、町の八百屋さんがスーパーの野菜売り場に代わり、金物屋さんがホームセンターに代わる。新しい時代の寵児となったホームセンターも今では、コンビニやドラッグに攻められている。
 私の勤めた会社では、戦前は金物屋さんに台所用品を売り、スーパーが出来れば、日曜大工用品を売り、ホームセンターが出来れば、日曜大工の専門用品を売って来た。時代と共に取扱商品を代えて時代に対応する。時代の先を読み、時代の流れに先駆けて、果敢に取扱商品を代えて挑戦して来た。時代に生きて来たということである。

「まいど、おおきに!」
と云って時代に生き延びるのである。

作品

所蔵寺院

仏像名

制作年号(西暦)

奈良・円成寺

大日如来坐像

安元二年(1176)

奈良・興福寺西金堂

釈迦如来像(仏頭のみ存在)

光背化仏、飛天

文治二年(1186)

静岡・願成就院

阿弥陀如来坐像

不動明王立像

制托迦童子立像

矜羯羅童子立像

毘沙門天立像

文治二年(1186)

神奈川・浄楽寺

阿弥陀如来坐像

聖観音菩薩立像

勢至菩薩立像

不動明王立像

毘沙門天立像

文治五年(1189)

真如苑所蔵

大日如来坐像

建久四年(1193)

和歌山・金剛峰寺

恵喜童子立像

恵光童子立像

制多伽童子立像

清浄比丘立像

鳥倶婆誐童子立像

矜羯羅童子立像

建久八年(1197)

京都・六波羅密寺

地蔵菩薩坐像

建久八年(1197)

栃木・光得寺

大日如来坐像

建久十年(1199)

愛知・滝山寺

聖観音立像

梵天立像

帝釈天立像

正治三年・建仁元年(1201)

奈良・東大寺南大門

金剛力士立像(阿形)

金剛力士立像(吽形)

建仁三年(1203)

奈良・東大寺俊乗堂

俊乗上人坐像

元久三年・建永元年(1206)

奈良・興福寺北円堂

弥勒如来坐像

無著菩薩立像

世親菩薩立像

建暦二年(1212)

神奈川・称名寺

大威徳明王坐像

建保四年(1216)