運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である。長男湛慶が承安三年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。
運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来像である。寿永二年(1183年)には、以前から計画していた法華経の書写を完成した。
この法華経は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人像、国宝)。経の奥書には、後に仏師として活躍することの知られる者を含む、名に「慶」字を用いる結縁者名が記されている。このことから、奈良仏師の中で、康慶の一門が「慶派」と呼ぶべき一派を成していたことがわかる。
治承四年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当することとなった。
成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊を造るため鎌倉に下向した。
一方、運慶は文治二年(1186年)正月に興福寺西金堂本尊釈迦如来像を完成したあと、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている。
また、その三年後、文治五年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。
願成就院の仏像は、平安時代後期の仏像とは隔絶した、めざましい作風を示している。平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであったが、分業制で同じような仏像を量産した結果、無個性でマンネリ化した作風に陥っていた。
対して運慶の作風は、仏像の男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などに特色があり、こうした作風が東国武士の好みに合致したものと推察される。
運慶は、奈良に当時多く残っていた仏像の古典作品を研究し、独自の作風を切り開いたものであろう。それが願成就院諸像で開花したのは、定朝様の規範に制約されない、東国の武士発願の造像であったからと理解される。
建久七年(1196)には康慶、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像は、その後大仏殿とともに焼失して現存しない。現存する大作としては、建仁三年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いて、わずか二か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。
承元二年(1208)から建暦二年(1212)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と、無著・世親像を造っている。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。
最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保四年(1216)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像を造った。
|