仏師名

ふりがな

ぜんえん

善 円(善 慶)

生年(西暦)

(1197)

歿年(西暦)

建長八年(1256)

幼名

別名

その後、善慶を名乗る

生涯の業績

特異な煌めきを放つ善派

 鎌倉時代の仏像彫刻は、慶派という一工房の様式に席巻された感があるが、慶派以外では、円派から出たと考えられる、善円、善春、善慶などの仏師の作品が知られており、その名に善を用いるところから善派と呼ばれている。
 善派の仏像は慶派の諸像にみられるような激しさはなく、面相も体つきも衣文もやさしく女性的で、張りつめた体躯の質感を丁寧に表現した像が多い。
 善円(11971256)は、南都の諸寺で活躍し、幾つかの遺作を残しているが、いずれも小品ながら、堅実な彫技を示している。
 善円が知られるようになったのは、昭和三十年に奈良西大寺愛染堂の秘仏、愛染明王像が善円の作であることが確認されてからである。
 本像は秘仏である為保存がよく、当初の華麗な彩色や切金文様、金銅製の装身具、持物、光背、台座に至るまでよく残されている。小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の一つといっても良い。
 本像の像底から内刳りした体内部に、木製六角経筒に納めた多数の納入品が納められていたが、このうちの瑜祇経奥書等に、宝治元年(1247)八月に叡尊が大願主、叡尊の弟子範恩が大檀越(だんおつ)となって、仏師善円が造立したことが記されている。
 叡尊は嘉禎四年(1238)に西大寺に還住してから、正応三年(1290)に没するまで、西大寺の造営・造像と戒律の復興に邁進したが、本像は、同寺復興に取り掛かった初期に、最初の仏像制作の事績として貴重である。
 寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役に際して、叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたと言い伝えられている。
 東大寺指図堂旧蔵の釈迦如来坐像も、その膝裏の墨書によって善円が海住山寺で嘉禄元年(1225)に制作したことが確認されている。
 本像は螺髪、目、唇も他は彩色を施さない素地で、解像度の高い肉質表現や仕上げの鑿の音まで聞こえそうな素木の木肌が特徴的な像である。
 善円の銘を持つ像としては、この他、承久三年(1221)銘の十一面観音立像(奈良国立博物館所蔵)、及び貞応二年(1223)から嘉禄二年(1226)にかけて造像された地蔵菩薩立像(米・アジアソサエティ美術館所蔵)が知られている。
 十一面観音立像は、像内及び納入経に承久3(1221)の年紀と仏師善円の名が記される。現在は後補の漆箔に覆われており、細かな彫り口が損なわれているのが惜しまれるが、均整のとれた体躯や切れ長の目、小ぶりで愛らしい鼻や口元、やや複雑で柔らかで丁寧な衣文を持つ着衣など、ほぼ同時期の作例である地蔵菩薩立像と極めて似た作風を示している。像内銘記や納入経奥書より、出離生死や法界平等利益などを祈願して、多数の結縁によって本像が造られたことがわかるが、その内容や人名にも地蔵菩薩立像の銘文と共通点が多い。
 更に、近年発見された薬師寺の地蔵菩薩立像は、像内納入の願文に、延応二年(1240)に東大寺の僧俊幸が施主となり、仏師善円が造立し、彩色を仏師円慶が担当した事が記されているが、納入品などから、善円は延応二年に四十四歳であり、生年が建久六年(1197)であることが判った。
 その生年が、かつては善円の後継者と見られていた善慶と一致することや、本像の面相が、像内胸部に「修補大佛師法橋上人位善慶」の墨書銘を持つ大和郡山市西興寺の地蔵菩薩像に酷似していることから、善円、善慶は同一人物と考えられるようになった。
 善慶時代の像としては、建長元年(1249)小仏師を率いて造像した西大寺本堂の清凉寺式釈迦如来立像のほか、建長七年正嘉元年(1257)の間には興正菩薩叡尊発願の奈良般若寺の丈六文殊菩薩像が知られている。さらに奈良西興寺の地蔵菩薩像を修補している。
 また、同名異人の可能性はあるものの、兵庫正福寺の阿弥陀如来坐像は、建長元年
(1249)の善慶制作銘を有し、叡尊の高弟忍性が開いた神奈川極楽寺の釈迦如来坐像は縁起に建長四年(1252)に善慶が造像したことが記されている。
 鎌倉初期の鎌倉新様式の基礎に立ち、繊細なまでの鋭い刀の冴えを表わす独自の作風は、善円時代の作品にも、善慶時代の作品にも共通して認められる特色である。

私 の 想 い

 私が最初に善慶を知ったのは、西大寺の本尊である清凉寺式釈迦如来立像を観てからである。その後、善円・善慶が同一人物であることが判明し、いろいろ調べる。
 若い時は、善円を名乗り、最初の作品が奈良国立博物館の十一面観音立像である。承久三年(1221)の作で、24歳の時である。次の作品が、米・ロックフェラーの地蔵菩薩立像で制作年は不明である。
 更に、東大寺指図堂の釈迦如来坐像である。これには高山寺の明恵上人が開眼法要をしており、明恵上人52歳で嘉禄元年(1225)の作で、善円28歳の時である。海住山寺を経て、現在は東大寺にある。善円は、その才能を明恵上人に認められていたのである。
 明恵上人は、同じ嘉禄元年(1225)に信仰深い善妙・白光の二像を運慶の長男湛慶に造らせている。
 そして、善円としての最後の作品が、西大寺の愛染明王坐像である。これは、興正菩薩叡尊に命じられて制作したのである。叡尊47歳、善円50歳の作品である。以後、善円は善慶と名乗り、叡尊に協力するのである。
 後に判明したのであるが、愛染明王坐像の前に、薬師寺の地蔵菩薩立像を造っていた。善円43歳の作品という。この地蔵菩薩像の発見によって、善円・善慶が同一人物であるということが判ったのである。
 これでも判るように、善円・善慶は鎌倉時代の仏教界の二大巨人に、仕えていたのである。この二大巨人も、叡尊は明恵を師と仰いで、師以上の仕事を残しています。
 善慶が親方で、息子の善春や弟子を従えて、東大寺の僧「然が唐から持ち帰った釈迦如来立像を、叡尊から清凉寺に行って、模刻を命じられて造ったものである。善慶52歳、叡尊49歳である。
 仏師と偉い僧侶の繋がりを、身近に観る思いの関係である。また、東大寺の俊乗坊重源が、愛染明王を念持仏としており、叡尊も善円作の愛染明王像を、身近に置いていたという。俊乗坊は、快慶と深い繋がりがあり、たくさんの関連仏像を制作している。俊乗坊重源坐像は、運慶の作という。偉い僧侶と偉い仏師は対で考えなければならない。

作品

所蔵寺院

仏像名

制作年(西暦)

善円時代の作品

奈良国立博物館

米・アジアソサエティ美術館

十一面観音立像

地蔵菩薩立像

承久三年(1221)

貞応二年(1223) 〜嘉禄二年(1226

東大寺指図堂
奈良・伝香寺

釈迦如来坐像
地蔵菩薩立像

嘉禄元年(1225)
安貞三年(1228)

奈良・薬師寺

奈良・西大寺愛染堂

地蔵菩薩立像

愛染明王坐像

延応二年(1240)

宝治元年(1247)

善慶時代の作品

西大寺本堂

奈良・般若寺

清凉寺式釈迦如来立像

丈六文殊菩薩像(室町時代に焼失)

建長元年(1249

建長七年正嘉元年(1257)

奈良・西興寺

兵庫・正福寺

地蔵菩薩像

阿弥陀如来坐像



建長元年(1249)

神奈川・極楽寺

清凉寺式釈迦如来立像

釈迦如来坐像

建長四年(1252)

善円(善慶)・善春親子の作品