仏師名

ふりがな

ぜんしゅん

善 春

生年(西暦)

不明( )

歿年(西暦)

不明( )

幼名

善円の息子で、親子で叡尊に重用される。

別名

生涯の業績

 善春は善慶の子である。鎌倉後期に活躍し、大仏師法橋となった。興弘長三年(1263)に叡尊の意を受け、般若寺の文殊菩薩像の塑造獅子座を父善慶の跡を継いで制作した。
 また、文永五年(1268)には奈良元興寺極楽坊の聖徳太子像を、建治二年(1276)には摩訶伽羅(まかから)(現存せず)を造り、また弘安五年(1282)には奈良額安寺の虚空蔵菩薩像を修理したことが知られている。
 しかしながら、善春の代表的な作品は、弘安三年(1280)に春聖・善実・尭善などを率いて造像した奈良西大寺の興正菩薩叡尊(こうしょうぽさつえいそん)坐像であろう。
 興正菩薩坐像は、西大寺中興の祖・叡尊が80歳を迎えた弘安3年(1280)、弟子たちが報恩謝徳のために善春に造らせた寿像である。長く垂れた眉毛、太い鼻、あるいは一文字の口元などの風貌はきわめて写実的で、実在の人に接しているような気迫を感じさせる傑作である。
 西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内には多数の納入品が納められているのが特色であるが、中でもこの像には、叡尊の自誓受戒記や父母の遺骨など、その生涯における記念的な品々のほか、叡尊に帰依した多数の弟子達の結縁を物語る願文はじめとするおびただしい資料が納入されていた。
 叡尊に付き従い、その意により多くの造像を行った善派仏師としての記念碑的な像といえよう。
 善派の造像の特徴は、小気味よいまでに繊細で弾力性に富む肉質表現にあり、慶派が主流であったこの時代にも、特異な煌めきを放っている。また、その後の影響は、東国において、極楽寺や神奈川・称名寺の諸像に大きく影響を与えたと見られるが、鎌倉彫刻全体から見れば、当時中国から流入した宋様式の流れの中に、取り込まれていったと考えられる。

私 の 想 

 父親の下で腕を磨き、尊敬する大師匠の姿を存命の時に造るというのである。西大寺の関係者や叡尊を慕う人々、1500人の思いを一身に受け、相当な重圧を感じながらの制作であったことは容易に想像できる。
 この像が出来上がってから、叡尊は更に十年存命されて、90歳で亡くなっている。そうすると、父の善慶は、叡尊よりも三歳年上であり、59歳で亡くなっている。父が33歳の時に生まれたとすれば、制作した時には、50歳である。脂の乗り切った年齢に達している。親子二代に亘って、叡尊に可愛がられ、大きな足跡を残している。
 親子二代の生涯が、長生きした叡尊の生涯を支えたと考えられなくも無い。それだけの大きな足跡を二代で遺したのである。

作品

所蔵寺院

仏像名

制作年(西暦)

奈良・般若寺

文殊菩薩像の塑造獅子座

興弘長三年(1263

奈良・元興寺極楽坊

聖徳太子像

文永五年(1268)

奈良・西大寺

大黒天立像

建治二年(1276)

奈良・西大寺

興正菩薩叡尊坐像

弘安三年(1280)

奈良・額安寺

虚空蔵菩薩像

弘安五年(1282)


善円(善慶)・善春親子の作品