寺史
浄智寺が創建された十三世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期である。
開基
執権として有名な北条時頼の三男宗政が二十九才の若さで弘安四年(1281)に歿しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。
開山
中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、および日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。
はじめ、開山に招かれた南州宏海が、大任すぎるといって身をひき、師の大休正念を請じて入仏供養の儀式をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山にたてたため、複雑な形になったらしい。南州宏海は嘉元元年(1303)に死去し、以後、高峰顕日、夢窓疎石、清拙正澄、竺仙梵僊、古先印元などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。
延文元年(1356)火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、あるいは蔵雲庵・正紹庵・正源庵・竜渕山真際精舎・楞伽院・正覚庵・大円庵・同証庵・正印庵・興福院・福正庵といった塔頭が建ちそろっていた。
戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぶりをうしなう。江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これからの建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰した。
現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形作っている。
「臨済宗円覚寺派 浄智寺」縁起より
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