関山中尊寺。黄金の光に包まれた阿弥陀堂・金色堂で名高いこの寺は、平安時代後期、奥州藤原氏清衡によって、みちのく平泉に再興された古刹だ。
嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁により開山。天台宗の東北大本山であり、現在、山内に本坊と17か院の支院を合わせもつ一山寺院である。
中尊寺の参道は、関山の麓、月見坂から始まる。樹齢300年を数える杉木立に覆われて、昼なお暗い。金色堂をめざして月見坂を進む。杉並木が途切れた先に東物見がある。
眼下に光る一筋の流れは、衣川である。この川の北岸は、かつて朝廷の支配が及ばぬ辺地と見なされて来た。参道を登りきると、そこにはコンクリートの覆い堂に守られて、国宝建造物第1号の金色堂が佇んでいる。
後三年合戦ののち、みちのくの覇者となった清衡は、この川を越え、豊田館(岩手県奥州市)から平泉へと居館を移し、中尊寺建立に取り掛かる。
清衡の領土は、福島県の白河の関から青森の外ヶ浜にまで及び、東北のほとんどを掌握していた。当時、みちのくは日本で唯一の金の産地であった。黄金がもたらす莫大な富が北方や大陸との交易を可能にし、京の都に勝るとも劣らない、都市文化の花を咲かせたのだ。
清衡が中尊寺建立に着手したのは、長治二年(1105)、50歳の年だ。清衡はまず多宝寺を建立している。その本尊である多宝如来とは、「法華経の真理を説く」といわれる仏である。中尊寺の建つ関山は、治める領土のほぼ中央に位置していた。すなわちそれは、仏の英知と慈悲によって、みちのくを平安な国へと、導きたいと願う、清衡の声明を意味する。
それは同時に、清衡が辺境蛮地の一豪族ではなく、都人と同様、あるいはそれ以上に仏教を篤く信仰し、理解する人物なることを天下に知らしめたのである。平安時代の国家建設には、仏教は政治手段として欠かせない存在だったのだ。
「古寺を巡る 中尊寺」より 小学館 2007年
|