新宮熊野神社は、社伝「新宮雑葉記」によれば、源頼義・義家親子が天喜三年(1055)、
「前九年の役」で陸奥征討に赴く際、武運を祈って紀州熊野から、熊野堂村(現河沼郡河東町)に勧請創建したのが始まりと伝えられています。
その後、「後三年の役」(1083〜1087)で再びこの地を訪れた源義家は、新宮の地に移すように命じ、造営は応徳二年(1085)に始まり、寛治三年(1089)に完成遷座し現在に至っています。
新宮熊野神社が全盛の時には、末社、霊堂が軒を連ね、三百余宇の衆徒、百余人の神職を常住させて、東北における熊野の威勢を全国に知らしめたといいます。新宮本庄と呼ばれる供田は三十五ヶ邑を数え、二百町歩余り、十万八千刈に及ぶ領田を持っていました。
源頼朝が文治五年(1189)、その御家人の佐原十郎義連に、会津四郡を与えたことによって、社寺領は没収され衰退を余儀なくされましたが、建久三年(1192)神社の長吏が幕府所在地の鎌倉に上って、神社創建の経緯を説明して社領の安堵を請願し、再び二百町歩の領田を保障され、その印証と文殊菩薩像を賜ったと伝えられています。
建暦二年(1212)佐原六郎左衛門尉時連がこの地に築城し、新宮氏を名乗り、以後約二百年間、盆地北西部一帯を支配しました。新宮氏は新宮熊野神社を守護神として崇め、現存する数々の神器を寄進しています。
その新宮氏は、会津一円支配をめぐって、宗家の芦名(佐原)氏と長年に亘る兵戦の末、永享五年(1433)に滅亡しますが、その後も新宮熊野神社は繁栄を続けました。しかし、天下麻の如く乱れた戦国時代になり特に「永禄」「天正」の頃には、社家や山徒は法務を忘れ、宝物を奪い取り、民衆も年貢を怠り供料するものもなく、神社は荒れ放題になってしまったといわれております。
その後、慶長年間に時の会津藩主である蒲生秀行が新宮熊野神社の由来を知り、五十石を給されました。慶長十六年(1611)に大地震が起こり、本殿を残すのみで長床をはじめ他の建物はすべて倒壊してしまいましたが、蒲生忠郷が慶長十九年(1614)に旧材を用いて、一回り小さく長床を再建しました。
江戸時代に入り、塩川以北の諸組の代表が参列して、毎年春秋二回の大祭がありましたが、現在は、十二ヶ村の氏子の代表の参列によって九月に大祭が催されています。
新宮熊野神社には、数多くの国・県・市指定の文化財があります。中でも「長床」は、昭和38年に国の重要文化財に指定され、昭和46年から49年まで足掛け四年の歳月をかけ、約1億4千万円の経費を費やして解体修理復元がなされています。
長床は、当初拝殿として建てられたようですが、その建立年次は不明です。解体調査によれば、型式、技法等から平安末期の建立と見なされ、少なくとも鎌倉初期は下らないものです。
寛治三年(1089)の建立とすると、時代的に見て東北地方では長床が一番古く、35年後の1124年に平泉の中尊寺金色堂が建てられ、続いて1160年に白水の阿弥陀堂が建てられております。
長床は、長大な規模と木太い柱の配列が特徴です。直径一尺5寸の円柱44本が十尺の等間隔に5列に並び、各柱上には平三斗の組物が置かれ、中備には間斗束が用いられています。
また、庇の天井は化粧垂木が美しく並べられ、身舎の天井は格天井となり、大きな上長押と下長押が取り付けられています。四方が吹き抜けのため、内部に林立する太い柱が見通され、いかにも古風でまさしく平安期の荘厳な趣を今に伝えてくれます。
「新宮熊野神社 長床」小冊子より 2009年
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