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仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 神奈川編

名  称

ぐみょうじ

弘明寺

俗称又は愛称

 

横浜市南区弘明寺町267

最寄駅

京浜急行

弘明寺駅

開  祖

 

沿  革

 高野山真言宗、瑞王山。行基の観音造立、空海の伽藍建立とするが未詳。

本坊では高野山流精進料理が味わえる(要予約)。食事の前に寺内を案内してくれる。

坂東観音霊場の14番札所。

 今から1300年近く前、元正天皇の養老五年(721)にインドの善無畏三蔵が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平九年(737)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願の全国を回遊し、当山の浄域に草案を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様であります。

  嵯峨天皇の弘仁五年(814)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩行を修行し、庶民の除災招福を祈願したと言われています。

 寛徳元年(1044)3月10 寛徳元年(1044)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。

 鎌倉時代には、「求明寺」と称されていたものを、観音経偈文の中の「弘誓深如海」の「弘」の字をとり、「求」を改めて現在の弘明寺となりました。

 明和三年(1766)には、智光上人により現在の本堂に再建されましたが、光慧上人が建立した時のチョーナ彫の床板やハリ、ケタ、等は再使用されています。

 大政奉還によって政権が朝廷に戻り明治時代を迎えると、神道に属さぬ仏教寺院は全国で大弾圧を受け、当山も寺領は御朱印と共に新政府に没集され、明治中期には無住職となって寺伝、寺宝の数々、住職系図までもが紛失する事態となりました。

 明治34年には、近隣有志や市内の貿易商社、大商店主、花柳界などにより弘明寺保勝会が設立され、弘明寺の復興と町おこしに皆邁進しました。

 明治44年には、仁王門前から鎌倉街道に接する農道が、整備されの四間道路が完成、これが現在の弘明寺商店街です。

 昭和に入ると、4年に湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)が、寺裏山を貫通して弘明寺駅が完成しました。直線

 昭和51年には、寛海和尚により、本堂屋根銅板張り替え工事、客殿改修工事が行なわれ、続いて寛定和尚により「平成の大改修」が実施されました。

 平成13年6月には、京浜急行電鉄鰍謔濶社設立100周年の記念事業として、人々の病気平癒を祈願する為に身代わり地蔵が境内に奉納されました。

「祈りの寺 弘明寺観音」小冊子 弘明寺の沿革より

 

私 の 想 い

 平成7年頃に大阪勤務から開放され、東京での勤務に戻ったが、仕事への情熱も冷めてしまい、平成8年に転職をする。転職の先は、昭和45年に大阪に行く切っ掛けとなった友人の会社である。この会社で時々横浜に行く機会があり、この寺を知る。

 仁王門を入ると本堂への急な石段がある。途中の左側に石造の身代わり地蔵がある。身代わり地蔵は、祈願する本人の具合の悪いところを代わってくれるありがたい地蔵さんである。地蔵さんの身体を、自分の具合悪いところに見立て、その部位をガーゼで撫でて行く。すでに地蔵さんの頭は、研き上がって光り輝いている。東京巣鴨の刺抜き地蔵も同様にガーゼで撫でる地蔵さんである。

 石段の両側には、欅の大木が覆いかぶさって立つ。石段を昇り切ると、本堂前の庭に出る。この庭からは横浜の町並みが一望出来る。

 本堂の中では、七五三のご祈祷が始まっていた。七五三の祈祷終了後に内陣に入って、十一面観音立像に拝観が出来るという。

 それまでお堂の中で待つ。お堂の中にある線香を燃やす炉から、線香の煙がもうもうと立っていた。その煙によって、お堂の中の柱や梁は黒光りしている。梁の欄間には、鳳凰の彫刻等もある。七五三のご祈祷も終了して、いよいよ内陣に入り、十一面観音立像を拝観する。

 

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