古寺巡礼
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仏像観て歩き 京都編1

名  称

ふりがな

がんせんじ

岩船寺

俗称又は愛称

相楽郡加茂町大字岩船ノ門43

最寄駅

開  祖

沿  革

 創立は天平元年(729)聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に籠居しておられた行基菩薩に命じて建てられたのに始まる。
 その後、弘法大師と智泉大徳が阿弥陀堂において伝法灌頂を修せられたため、灌頂堂となる。大同元年(806) 智泉大徳、新たに報恩院を建立される。更に嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇孫の誕生を祈願され、皇子が誕生された。後の仁明天皇である。
 皇后ご叡信が特に深く、皇孫誕生のこともあって弘仁四年(813)に堂塔伽藍が整備され、寺号、岩船寺となる。
 最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その偉容を誇っていたが、承久三年(1221)によって大半が焼失した。
 その後、再興された堂塔も、再度の兵火によって次第に衰え、江戸時代初期の寛永の頃(16241643)には本堂、塔、坊舎、鎮守社等、十棟程度になる。
 当時の住僧文了律師はこの荒廃ぶりを痛く嘆き、自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川氏の寄進とによって、本堂や本尊の修復を成し遂げられた。
 そして、江戸時代の本堂も老朽化のため5カ年計画で本堂再建事業を進め、昭和六十三年(1988)四月二日落成し、現在に至る。
「岩船寺縁起」より

ここも二度目位なのに、印象がない。本堂に入ると一隅に住職が座っており、メモを取って好いか聞く。了解を得て、正面を観ると阿弥陀如来坐像である。
 今日は訪れた寺々、全部の本尊が阿弥陀如来像であった。それを見込んでいた訳ではない。同じ阿弥陀様でも立像あり、坐像あり、手の印相ありで変化もあるし、印象も違うので飽きる事はない。
 この寺も真中に阿弥陀如来像を安置して、周りを一間廊下にした本堂である。堂々たる丈六の阿弥陀如来坐像で印相は、上品上生に結んでいる。
 阿弥陀さんの右前に、興正菩薩叡尊坐像があった。鎌倉時代の大事業家であり、大僧正であり、民衆救済の救世主であり、西大寺の再興をされた偉人である。なぜ、偉人かと言えば、生身の人間で菩薩といわれた人である。
 興正菩薩叡尊は、弟子達が存命の時に、自分達でお金を集めて、肖像画ならぬ、肖像彫刻像を送ったのである。この像を西大寺で拝観して来た。住職に
「西大寺でご存命の時に彫られた、叡尊さんにお会いしました。例の八の字に開いた長い眉毛の方でした。村山元首相と同じ」
というと
「そうそう。村山さんと比べたら駄目だよ」
だと。
「それでも、一国の総理大臣ですよ」
と混ぜ返すと
「やった事が違うし、スケールも違う。生き仏だよ。村山さんも好いじゃない」
という。
 西大寺は本当の生身を、対象に彫刻したのであるが、それ以外に全国にたくさんの興正菩薩叡尊坐像があり、それらは西大寺の像を模刻したという。これもそうである。
 そういえば、西大寺の本尊の釈迦如来立像は、京都の清凉寺像の摸刻像であり、叡尊さんが勧進元で造らせた像である。本尊が模刻された像で、興正菩薩叡尊坐像は模刻される像であるのも、面白い取り合せである。
 帰りに、ホテル近くにヤフーの販売店が新規開店した。そこで、メールについて聞くが思うようにうまく行かない。このまま今のスタイルを続けます。

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岩船寺所蔵仏像

阿弥陀如来坐像 普賢菩薩騎象像
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4.        ここでは、国宝と重要文化財の指定を受けている仏像を紹介しております。
5.
   「国宝・重要文化財大全」彫刻 毎日新聞社 1998年より選定しました。
6.        像高も上記大全のものを小数点以下切捨てで、記載しました。寺や解説書等と多少違うかも知れません。
7.        掲載した「沿革」と「解説」は寺から頂いた資料や手持ちの解説書からのものを掲載しております。

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9.    一つでも好きな仏像を決めて、訪ねると一層「仏像観て歩き」が楽しくなります。      以上