古寺巡礼
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仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 京都編2

名  称

かんのんじ

観音寺

俗称又は愛称

 

京田辺市普賢寺

最寄駅

近鉄京都線

三山木駅

開  祖

 

沿  革

 天武天皇の勅願により、義淵僧正が開基される。次いで聖武天皇の時に良弁僧正が伽藍を増築される。二月堂でお水取りを初められた実忠和尚が普賢教宝寺と称して、大きくする諸堂13、僧坊20余あったが、永亨九年(1437)の火事で殆ど失う。

 

 この寺は今より千三百年前、天武天皇の勅願により義淵僧正が開基され、次いで聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築した寺であります。良弁僧正の高弟で、有名な奈良のお水取りを初められた実忠和尚を第一世とします。法相三論華厳等を兼学し、世の尊信を集め、息長山普賢教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は筒域の大寺と申しました。

 御本尊十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の御本尊で、古記録によりますと天平十六(744)安置されたものであります。天下泰平と国民豊楽の祈願をこめられた御霊像で、その後千二百余年の間、世の変遷につつがなくいまし、今にその御霊徳をお分かち下さって居るのであります。この十一面観音様は四種功徳、十種勝利と申しまして、我々の苦難をお救い下さる観音様のうちでも、特にすぐれた御利益がお経に説かれて居ります。要約致しますと、常に我々と共にあって、無病息災に、不時の災難をのがれさせ、種々の祈願を成就せしめるとの御誓願であのます。本日御参詣の皆様、我が国有数の天平仏として拝まれます前に、静かに古人の願に想を本日御参詣の皆様、我が国有数の天平仏として拝まれます前に、静かに古人の願に想を致し御本尊の麗容からする無限の光に浴され、皆様のお心深く御誓願をおうけ下さい。

今や往時を偲ぶ何物も残って居りません。数々の地名に寺ゆかりの名を残し、古塔の跡には僅かに数個の礎石を残すのみであります。しかし、古図によりますと諸堂十三、僧坊二十余を数えます。所領も近隣はもとより、河内交野に迄及んだ様であります。これら結構な建物も永享九年(1437)冬の火事に殆ど失われた様です。それまでは度々の火災にも延暦十三年(794)の時は藤原良房公を本願とし、治承二年(1178)の時は普賢寺関白基通公により、弘安二年(1279)の時は高山寺関白家基公により再建されました。このように藤原氏の外護を受けましたのは、当寺が藤原氏の氏寺興福寺の別院であったからでもありましょう。

この藤原氏の外護を離れてからは当地方の古刹として小さい乍ら尊厳を保ち続けて来たのであります。

古くは仁徳天皇の頃に開けた土地、大らかな天平の名残をと富む古刹。近くには一休寺、蟹満寺等もあります。一日の御参詣は、きっと皆様に満ちたりたものを与える事でしょう。再度の御参詣をお待ちします。

「略縁起 大御堂 観音寺」より 2014年7月

 

私 の 想 い

 このお寺を最初に訪れたのは、昭和45年頃である。以来、七,八回は来ている。高校卒業後に、関西在住の同級生四名と夏休みで休暇中の恩師塚越先生を案内した事もある。

 夏の暑い盛りに訪れた時には、裸で大掃除とかで自宅の方で働いていた住職が汗を拭きながら、袈裟に着替えてやって来た。

 秋には、寺の前の田んぼの畔に、真っ赤な彼岸花が燃える様に咲いて居た事もある。春には前の参道の桜が咲いて、桜のトンネルになる。そのトンネルを通って来た事もある。

平成5年には、近くに同志社大学が来ていて、周辺の状況も一変していた。

平成16年5月に10年振りに訪れた。住職が僧衣を着て出て来る。いつかも、そうであった様に観音堂に入る時には、僧衣でしか入らないのだ。十一面さんに対する心遣いがうかがえる。

一人で案内されて、お厨子を開けてくれた。そのうちに外が騒がしくなって来た。住職が一旦閉めさせてもらうと言って、お厨子を閉めた。どやどやと団体が入って来た。

住職は何も無かった様に団体に一声掛けて、「般若心経」を始めた。太鼓でリズムを付けて詠む。団体のために改めて、お厨子の扉を開く。次々に十一面さんを観て行く。

観終えて、住職曰く。

「初めから開いていると有り難味がないので」

という。なるほどと、感心する。それは、私への心遣いでもあった。

団体が帰った後もゆっくりと十一面さんと面談出来た。群馬の乾麺がまだあるので、食べてもらおうと自宅に持って行くと奥様がお茶でも飲んで行きなさいと言ってくれる。玄関に座り、自己紹介とこのお寺には、度々来ている事など話す。

この時間では、開いているかどうか、判らないが、「寿宝寺」に寄って見てはどうかと教えてくれる。

  平成17年4月の「仏像観て歩き2」では、次のように記述している。

平等院の拝観を終えて、まだ早いので、ここまで来たら奈良に行く通り道である、観音寺の十一面さんにも、会いたくなった。宇治から城陽に出て、木津川を渡って京田辺に向かう。観音寺の前の田圃は、菜の花が一面に咲いて、黄色と緑のジュウタンを敷いたようである。一年振りの訪問である。

 拝観をお願いにお宅の呼び鈴を鳴らすと、若い青年が現われて、

「先に本堂の前でお待ちください」

と言われる。

「あれ、若い人だ。住職の息子さんかな」

と思う。今まで一度も若い人に会っていないので、

「いよいよ、住職も引退の時期が来たのか」

と推測する。

 簡単なお経をあげて、お厨子を開けてくれる。お厨子の前に出て、十一面観音立像に再会のお礼を申し上げる。息子さんに昭和45年からこちらに来ていると伝える。

 前回も群馬の「乾麺」だったが、今回も別な「乾麺」をお持ちした。息子さんに小生のホ−ムページアドレスを教えてご覧頂くことにした。

 池を廻って車に戻ると、老住職が参道に出て来たので、挨拶をするとお礼を言われて恐縮する。

 前回に寿宝寺を教えて頂き、拝観出来たこととそのお礼をいう。普段のお努めは、息子さんにまかせたのだろう。ゆったりした様子が判る。

 平成21年10月京都・滋賀「仏像観て歩き」で訪問した時には、次のようにかいている。

 三室戸寺の拝観を終えた時点で午後4時半を過ぎていました。駄目だったら、大人しく今日の行程をここまでと思っていました。観音寺に電話を入れて、今、三室戸寺に居ります。是非に、十一面観音像を拝観したいとお願いしました。六名での拝観を伝えると、ご住職からの許可を頂きました。急いで観音寺に向かいました。到着したのが、6時前でした。そして、拝観いたしました。
 今回の 京都・滋賀「仏像観て歩き」 の副題は、「千手観音と十一面観音を訪ねる」である。中でも、ここ観音寺の十一面観音像と向源寺の十一面観音像は外せない大事な目的の一つである。
 ご住職だけでなく奥様まで出て来られて、総勢八名で例の通り、ご住職が般若心経を唱えての拝観となりました。
 お厨子の中は、新しく金箔が貼られて更に神々しくなりました。奥様からは、最高の拝観場所を伝授されました。そこは、いつもは近寄れない、ご住職が勤行をされる席の横の場所でした。
 多分、ご一緒に勤行される時の奥様の席なのでした。前回は若い息子さんに案内され、今回はご夫妻で案内して頂きました。こうしたご家族に見守られて、十一面観音様は過ごされているのです。

最後に、群馬の小麦で造られた乾麺をお届けして、観音寺を出る時には、午後7時近くになっていました。遅くまで、ありがとう御座いました。
 平成22年11月の遷都1300年「仏像観て歩き」で訪問した時には、次のように書いている。

 手前の寿宝寺に寄ってからの訪問になった。何時ものパターンと逆である。3名でタクシーに乗って行った。三山木駅から観音寺まで乗ったのだが、新幹線の中に旅行の行程表も、第1日目の今日と、第2日目の明日の分の拝観仏像の資料を置き忘れて来てしまった。五日間の訪問予定は、頭に入っているものの、資料を作って来たのに残念である。

 私の「仏像観て歩き」の理想的なスタイルは、寺での出来事や風景を書き留めること。寺周辺の風景をカメラに収めること。一つ一つの仏像の姿を書き留めること、更に仏像との会話が出来れば、最高である。その為には、事前の準備と現場での時間が必要になる。

 ところが、主宰する「仏像観て歩き」で仲間と一緒の訪問となるとそんなことは出来ない。次のことも、時間のことも、いずれもが、中途半端である。そこへ持って来て、資料がない。腰バッグを見たら、カメラも無い。タクシーの中にまた、置き忘れたのではないか。

 タクシーの運転手には、一時間半後に迎えに来るように伝えてあるものの、一応タクシー会社に忘れ物の連絡をしました。その後、リュックサックの中にカメラはありました。タクシー会社にその旨連絡を入れる。頭の中はパニック状態である。

 そんなことがあり、観音寺に行くと先代住職が丁度玄関前に出ていた。

「前回は遅くなってしましまして、失礼しました。今回もまた来ました。」

と、挨拶しました。何せ、前回(平成21年)は6名で午後6時過ぎまでの訪問であった。先代ご夫妻のご案内での拝観でした。その中の3名がまた、今回のメンバーである。それだけ、ここの十一面観音像は魅力があるということである。

「板橋の石田屋の栗まんじゅうをお持ちしました。」

と、お渡ししますと、本堂に向かう息子のご住職にそのまんじゅうを渡して、そのまま玄関前にいる。

「もう、すっかり息子さんにですか。」

と聞くと

「全部、全部。よろしゅうお参り。」

だと。本堂では、若住職も先代と同じように、般若心経を唱えてから、お厨子を開けました。

 平成26年7月の「仏像観て歩き」法隆寺夏季大学の時に、前日に訪問しました。

前日は、東京を朝早く発って、京都から近鉄線で奈良に向かい、三山木からタクシーで観音寺を訪ねる。

 庫裏を最初に訪ねると、旧住職の奥様が出て来られる。拝観をお願いすると同時に、昨日の昼に用意した「板橋の石田屋」の栗饅頭をお土産ですとお渡ししました。

 先に本堂で待っていると、住職が渡した栗饅頭を片手に持ち、観音様にお供えしてからという。般若心経を唱えてお厨子の扉を開けてから拝観が許される。ここまでは、旧ご住職と同じ手順です。

 この十一面観音様に対しても、拝観する人のよってそれぞれの感じ方や想いが違う。このご住職も観音様を拝観する最高の場所があるようだが、私はそれを遮るようにお母様から聞いた話をしました。そのお母様のご意見に私も同感ですと答えた。

 考えて見れば観音様の前で、老住職が勤行をされている。その脇で勤行聴きながら、観音様を仰ぎ見る情景全体を想像するだけで、この老ご夫婦と観音様の関係が観えて来ます。

 

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お礼とお詫びとお断り
当寺の記述を最後まで、ご覧頂きまして誠にありがとうございます。
厚く御礼申し上げます。下記の通り、お詫びとお断り申し上げます。

1.        仏像の写真を紹介出来なかった事です。勝手に掲載しませんでした。
2.        絵葉書、仏像解説書、国宝写真集等々で、有名な仏像については、ご覧になれる機会は多いと思います。
3.    それ等をご覧になりながら、もう一度ここにお越し下さい。 また、別の仏像の楽しみ方が出来ると思います。

4.        ここでは、国宝と重要文化財の指定を受けている仏像を紹介しております。
5.
   「国宝・重要文化財大全」彫刻 毎日新聞社 1998年より選定しました。
6.        像高も上記大全のものを小数点以下切捨てで、記載しました。寺や解説書等と多少違うかも知れません。
7.        掲載した「沿革」と「解説」は寺から頂いた資料や手持ちの解説書からのものを掲載しております。

8.        一番は、実際に寺に行ってご覧になることです。
9.    一つでも好きな仏像を決めて、訪ねると一層「仏像観て歩き」が楽しくなります。      以上