古寺巡礼
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仏像観て歩き 奈良編3

名  称

さいほういん

西方院

俗称又は愛称

奈良市五条2丁目9-

最寄駅

開  祖

沿  革

 西方院は、唐招提寺の塔頭として、その西方300mの丘上にあり、開基は鎌倉時代の慈禅上人である。
 慈禅房有厳(11861275)は、嘉禎二年(1236)東大寺大仏殿に自誓受戒を行じた「南都四律匠」の一人である。寛元二年(1244)宋に渡り、在宋三年、律宗と念仏門を学び、宝治二年(1248)律宗三大部を将来したと伝えられる。その後、西方院を創建し、斎戒衆として念仏を修した。
 建物は本尊を安置する本堂「兼収蔵庫、高床式鉄筋コンクリート平屋、宝形造り、昭和57年完成」、礼堂、庫裏から成る。
 境内には、唐招提寺中興二世證玄(12201292)・唐招提寺中興覚盛の弟子、鎌倉期の伽藍復興をなしとげた人の大きな五輪塔、護持院隆光(当院で得度、徳川五代将軍綱吉が帰依 した)の五輪塔、蔵松院英範(将軍綱吉の生母・桂昌院の帰依を受け、元禄期の唐招提寺伽藍復興に貢献した)の宝篋印塔等、唐招提寺衆僧の墓所として、多くの石塔が現存する。
「唐招提寺 塔頭 西方院」より 2010年

私 の 想 い

 平成22年11月 遷都1300年「仏像観て歩き」で訪問した時には、次のように書いている。
 快慶作の三尺阿弥陀如来立像を調べている中で出て来た寺である。奈良市内の唐招提寺に近く、その子院とのことである。訪問を電話で伝えてこの旅行に出た。ところが途中で訪問寺院を変更したりしていたのである。3日目に行く予定が、5日目になっていた。
 唐招提寺の前の道を近鉄線の線路を渡った先に寺はあった。寺は綺麗に整備されているが、人の住んでいる様子が無い。玄関先に厚い板と木槌が吊るされている。板の中程が、叩いた跡で凹んでいる。これで訪問を伝えるに違いないと思い、勢い良く二度叩いた。
「ごめん下さい」
と同時にいった。奥の庭の方で
「はい」
と同時にいった。奥の庭の方で男の人声がした。人の気配がして、奥の庭を仕切る仕折り戸に中年の人が立っている。
「こんにちは。快慶作の阿弥陀如来像があると聞き、拝観に来ました。新井と申します。」
というと、
「昨日ではなかったの。電話をくれなければだめだよ。待っていたのだから。」
「すみません。予定が変わってしまいましたので、電話しないでごめんない。」
と、言ったものの気まずい雰囲気である。
「今日はこれから花も買いに行かなければならないし、庭も整理しなければならないので忙しいのだ」
と言って、奥の庭に消えようとした。
「阿弥陀如来の写真はありませんでしょうか」
と追いかけるように尋ねた。実際に拝観出来なければ、写真だけでもの思いである。
「探して見なければ判らない」
と言い残して、奥の庭に消えた。
 失敗したな、電話を一本入れれば良かったのだ。ところが、実際は電話番号を書いた地図は新幹線の前ポケットに入れて、岡山に行ってしまったのである。悪いことは続き、つながるものである。
 今日の拝観は諦めて、後日、訪問しようと決めた。それでも玄関先の庭に花が咲いていたので、その花の写真を撮って帰ろうとした。
 ところが、
「写真があった。」
と、仕折り戸から声がした。見ると絵ハガキである。
「お幾らですか。」
「300円。」
という。300円を受け取りながら
「まあ。来なさい。」
と言い。奥の庭に先に立って入って行く。後に続くと奥には鉄筋の収蔵庫があり、首に掛けた鍵で、収蔵庫の扉を開けてくれたのである。先ほどまでの気まずい雰囲気は何であったのか。折角、開けてくれたので、三尺阿弥陀如来像の特徴について、私なりの説明をしました。
 このようにいろいろな人々に迷惑を掛けながらの拝観である。それなりの成果を生まなければ詰まらない。納得の行く快慶作品の見方を説明しなければならない。

西方院画像一覧その1
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