仏像名

ふりがな しょうとくたいしりゅうぞう

天洲寺
制作年代

     重文
鎌倉時代

聖徳太子立像

様 式

寛元六年(1247)

俗称又
は愛称

十六歳の孝養像といいます。

製作材質

木造、彩色
玉眼

樹 種

像 高

140cm

製作者

安置場所

本堂

開扉期間

解 説

 聖徳太子堂の奥殿に祀られている聖徳太子像は正式には聖徳太子孝養立像といいます。
 この像ができた年代は鎌倉時代の末期寛元五年(1247)の事で、現在の鎌倉鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館が現存する位置周辺で制作されたと推測されます。(毛利家の領土と推測されています)
 孝養像は日本で700体以上現存しておりますが、その中で太子堂のお像は日本で制作年代や制作者等がはっきりしているもの、そうで無いものを合わせた中でも、現在日本最古と言われております。
 孝養像は太子が十六歳の時、父用明天皇が病気になられた時、その病気平癒を仏陀に祈願した姿とされており、お顔は青年の若々しさにあふれながらも、眉間にはどことなく不安と真剣味があふれています。
 この像は高さが約140センチあり、檜の寄木造で目は玉眼といって水晶が施されています。像の中には墨書銘という願主のお名前やこの像を作った理由等が記されており、宗教史はもとより美術史上からも注目を集めています。
 この墨書銘によれば願主は鎌倉幕府の関東評定衆を務めていた大江広元の四男毛利四郎季光(スエミツ)で、目的は毛利四郎季光の親兄弟や鎌倉幕府三代将軍源実朝(サネトモ)。鎌倉幕府三代執権北条泰時らの極楽往生を願ったものとされています。
 この墨書の写しは太子堂内正面左側に掛け軸になっています。これらの事から昭和十二年五月に国宝の指定を受け、戦後文化財保護法の制定により昭和二十五年八月に重要文化財の指定を改めて受けました。
 このような像がなぜ荒木天洲寺に祀られるようになったのか、その経緯は未だ謎とされていますが、いずれにしても歴史の教科書に登場する人々が実際に眼にした像を、平成の時代になって私達が同じ像を拝見できるという事は、大変意義深いものといえるでしょう。
「聖徳太子孝養立像」より 2010年

 像が制作された当時の時代は公郷文化が衰退し新しい政治の担い手として華々しく台頭して来たのが武家階級であり、そのお膝元である鎌倉でこの像が制作されたことは歴史的に多いに注目される所です。
 その像の胎内に記されている銘文、即ち祈願文ともいえるのが、制作年代、作者等を知る上で貴重な資料となるものです。
 慶尊という僧侶は「吾妻鏡巻四十三」によると、この像が作られて10年後の正嘉元年(1257)に鎌倉大慈寺の修理供養が開かれたとき権律師の位にあって、列席したと記されている高僧です。
 また、願主・西阿弥陀仏とは鎌倉幕府の関東評定衆を務めていた大江広元の四男・毛利四郎季光の法号です。従って、二親幵舎兄二人とは季光の父大江広元、母不詳、兄親広、時広、宗広の内既に没していた二人を指しています。源有綱は源三位頼政の孫で頼朝、義経の不和に巻き込まれ義経に従って、西海に逃れながら暴風に遭い大物浜に上陸、やがて義経と別れて伊賀国黒田庄に潜んでいた所を追手に捕まり殺害された悲劇の武将です。
 また、平泰時とは鎌倉幕府三代目執権北条泰時の事で建久四年(1184)に生まれ仁治元年(1242)に出家し「親阿弥陀仏」と号しましたが、この年の六月に没しています。つまり北条泰時の死後五年後にこの像は制作された事になります。
 従って、この銘文には親兄弟の冥福を祈るとともに泰時の冥福も祈願されています。又、没してから60年にもなる源有綱の冥福も並列して祈願されている理由は不明ですが、季光との関係で興味を引く所であります。
 次に後頭部内側に記された銘文「阿闍梨りんはんが御所菩提の為に」と言う文は、阿闍梨りんはんは結縁者のひとり、御所とは三代将軍源実朝(1219年に暗殺された)の事を指すと考えられます。実朝が聖徳太子信仰に一役克っていたことは「吾妻鏡巻一八」などでも明らかです。
 最後に像の作者慶禅ですが名を法橋慶禅といい現存する作品は天洲寺の像だけです。その彫りから考察出来ることは、この像が奈良の興福寺北円堂の無著世親に類似している点や、顔の表情が同じ興福寺の梵天像に似ている事などから、当時の代表彫刻家運慶や定朝に何らかの係わりのあった人物とも考えられ、少なくとも地方で活躍した仏師ではなく中央から下って来た人か、或いは中央の造仏法を十分に手中にしていた人ともいえるでしょう。ちなみに当時鎌倉にあって活躍していた彫刻家は雲慶、参河、幸有などです。
 この像の願主・毛利四郎季光はこの像が出来て五ヵ月後の宝治元年(1247)の六月五日、前者若狭守平泰村一族の反乱に加担し、捕らえられて殺害されました。これを機にこの像も鎌倉を離れる事になり、やがて縁あって現在の天洲寺に祀られる様になったのです。

私 の 想 い

 天洲寺で頂いたパンフレットの写真、解説文をそのまま、掲載させて頂きました。訪問時に口頭で当ブログ掲載のお話をしております。ありがとう御座います。
 さて、聖徳太子さまは、歴史の教科書で十七条憲法だとか、一度に十何人かの人の話を聞き分けたとか、子供心にいずれもが嘘っぽく思えて、どうも近寄り難い人になっていました。そんなことで、ついつい聖徳太子さまのお像に対しては、敬遠していた節がありました。今こうして書いていても、天皇、皇室、それに近い人として書かねばならぬという圧力を知らず知らず感じています。
 そこで、今回は、意を決して、聖徳太子像の国宝、重文指定を受けているすべての画像を揃えて、こっそりと楽しもうと思います。その中には、当然ここに載せた画像も入っています。もう少し、勉強して、又何時か、当ブログで紹介できる日が来るでしょう。

聖徳太子立像画像一覧その1
聖徳太子立像画像一覧その2
聖徳太子立像
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