天洲寺が建立されたのは今から約400年前、慶長十二年八月(1607)のことです。開基(創立者)は荒木長善とその遺子・八右衛門と伝えられています。もともと荒木家の祖先は現在の寺院のある荒木一帯を領有して荒木越前と呼ばれていた禄高八十貫の武将でした。
そして、開基と伝えられる荒木長善は天正十八年、豊臣秀吉が小田原に北条氏政・氏直父子をせめた折、時の城主、成田氏長が北条氏に加担して、小田原城に籠城したのでこれに従い、主従共に討死した人です。
しかし、村人たちは長善なき後も其の遺子八右衛門を養育し、後に八右衛門は「北岡」と姓を改めたといわれています。ちなみに荒木長善の居所跡は、以来人々によって「長善沼」と呼ばれるようになっています。
一方、天洲寺の開山(宗門の祖)は忍領佐間の清善寺五世住職天洲全堯和尚です。このため天洲寺の正式名称は、曹洞宗平田山清善寺の末・聖徳山天洲寺 というのが正しいわけです。さて、本寺所蔵の「聖徳太子一六蔵鏡御影略縁起」によれば、
「元和2庚甲年荒木の四郎藤原の長善といへる人此の尊像を沼の洲崎に移し奉り、かの島を城地として居住し、しかるに尊像夜に光を放ち、また沼のうちより籠煙を挑ぐ・・長善信敬の思ひをなし、則当寺を開基して摂津四天王寺の聖地を模し、山を聖徳山と号し、寺を天洲寺と名す」
と記されています。
曹洞宗の寺に聖徳太子像がある事は全国的にも珍しく、その点から考察すれば以前この地には他の宗門の寺院があり当時すでに荒廃していたその寺に聖徳太子像は祀られていたのではないかと考えられます。それを長善が運び出して新たに太子堂を建立してそこに祀り直したと推察することもできます。
また、この荒木は浄土真宗の祖・親鸞聖人の直弟子・源海上人光信の生国でもあり、上人は後に生国荒木に帰り、満福寺を建立したといわれています。あるいはこの満福寺に聖徳太子像があったとも推察される所です。いずれにせよ、長い歴史と秘められた数々の由来を持つ像を祀ったこの寺は建立当時から今日まで広く人々の信仰を集めています。
「聖徳太子孝養立像」より 2010年
|