はじまり
永正四年(1507)、大本山鎌倉光明寺九世観誉祐崇上人により開創されました。上人は常紫衣沙門の始まりの人で、浄土宗のお十夜法要をはじめて行なった方です。
祐崇上人は光明寺を引退後、駿河の国に来て、柚木に一ヶ寺を建立し「龍泉寺」と命名され、最後往生の寺とし、浄土宗の教をひろめ、永正六年(1509)十一月八日 73歳当山で往生されました。
宝台院の由来
祐崇上人龍泉寺を創寺八十四年を経て、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)が、天正十七年(1589)五月十九日に駿府城にて逝去されました。
西郷の局は、二十七歳より家康公に仕え浜松城にあり、家康公の三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公の最も苦難の時にあった浜松城松崎の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。天承十四年(1586)十二月、西郷の局は、名実ともに東海一の実力者となった家康公と共に駿府城入りをしました。しかし、西郷の局は駿府城に入ると又々苦労多く、疲れが重なり、天正十七年(1589)五月、三十八歳という短い生涯を終えました。そして、御遺骸がこの龍泉寺に葬られました。西郷の局は、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。
徳川家康公は、天下を取った翌年、慶長九年(1604)に龍泉寺を柚の木から紺屋町に移し、朱印(寺社領の安堵)三十石と自画像(現存)、そして父広忠から譲られた太刀(現存)を寄進し、十七回忌の法要を営みました。その家康公も、元和二年(1616)に他界しましたが、その葬儀の副導師を龍泉寺六世典育上人が勤め、またその後の駿河での法事で導師を務めました。家康公没後は二代将軍秀忠公が母の菩提寺を盛り立てました。
寛永五年(1628)、秀忠公は、現在の地に大伽藍を建て、大法要を営みました。この入仏法要に勅使が派遣され、西郷の局へ従一位の追贈があり、「宝台院殿一品大夫人」と戒名が改められました。また、寺名も金米山宝台院龍泉寺と「宝台院」が加わり、以来、「宝台院」と呼ばれるようになりました。
そしてこの時、寺格、寺法が制定され、江戸増上寺、駿河宝台院は徳川家当用の菩提寺となり、江戸城入りの時は、十万石の格式を与えられ駿府国の触頭(ブレガシラ)となりました。また、宝台院六世鏡誉上人が参内上洛の時、代々の住職は常に紫の衣を着るべしとの諭旨(天王の意思・命令を伝える文書)が下されました。
最後の将軍徳川慶喜公と宝台院
徳川慶喜公は将軍職を剥奪され、恭順の意を表して水戸に謹慎していたが、謹慎の身柄を駿河に移されることになりました。
慶応四年(1868)七月十九日に水戸を出発、銚子から旧幕府軍艦幡竜艦に乗って、七月二十三日に清水港上陸、陸路東海道を通ってその日の夕方宝台院に入りました。護衛には松岡萬の率いる精鋭隊隊員五十人が付きました。また、新門辰五郎も同行し、宝台院近くの常光寺に居を構えました。慶喜公は、明治二年(1869)九月二十八日に謹慎が解かれるまで、 宝台院で起居されました。
当時、明治維新政府が警戒する中、旧幕臣に会うことを避けていた慶喜公ですが、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、新門辰五郎等は常にお見舞いに参上していたそうです。
明治元年(1868)八月、徳川家達公が藩主として駿河入りの時は宝台院を訪れ、まず御霊所へ参拝された後、慶喜公と面会されたとのことです。
「浄土宗 金米山宝台院」小冊子より 2012年
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