当山は、念仏の元祖 法然上人を宗祖と仰ぐ浄土宗に属し、京都にある総本山知恩院の直末寺で、遍照山摂取院新光明寺と称します。
寺伝によれば、貞永元年(1232)、法然上人の法孫 恩蓮社源誉上人が、今の静岡市伝馬町の地に、仏師快慶作の阿弥陀如来像を御本尊として安置し、東海の念仏道場として建立された寺であると伝えられております。法然上人の御開宗から五十七年後のことです。このことは昭和五年刊「静岡市史」第四巻にきさいされています。
けれども、「駿河記」(文化六年(1809)刊や「駿河志料」(文久元年(1861))刊など、近世の地誌類などには、永正八年にこの地に至った鎌倉幕府二代将軍頼近の子孫で鎌倉光明寺九世源誉上人により創建されたという記載がります。こちらの伝によれば、源誉上人は、頼朝の妻政子の発願により、当山創立の後、当地に滞在し入寂されたということです。
いずれにしても、度重なる火災やその他の災厄により、寺の縁起の類は残されておらず詳細は不明であります。その後、山科言継(大納言)の書いた「言継卿記」には、「駿河の新光明寺に一年有半滞在す塔頭は二十を数え。伽藍完備せり」と記録されていて、当時(1556)の当山の壮観ぶりが伺えます。
しかし、かくも荘厳を誇った当山も嘉永七年の大地震により、堂塔尽く損壊し翌八年に再建しましたが、往年の威容は取り戻すことが出来ませんでした。
その後も、明治九年の伝馬町大火、昭和十五年の静岡大火、昭和二十年の米軍空襲等、相次ぐ火災により度々類焼し、一時は本堂も無い有様となってしまいました。
昭和三十三年七月七日、第三十九世勝誉至道上人は本堂を再建して落慶式を挙行しましたが、病弊も顧みず奔走したため、同年八月二十五日に遷化せられ、同年九月九日、遺弟泰彦が第四十世住職に任命され現在に至りました。
「遍照山 摂取院 新光明寺」の沿革より 2012年
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