大円寺は徳川幕府がようやく軌道に乗りはじめた元和年間(1615〜23)頃、奥羽・出羽三山の一つ、湯殿山の修験僧大海法印が、大日如来を奉じて山を下り、目黒の地に祈願道場を開いたのが始まりとされています。
大海法印はたちまち人々の心を捉え、道場は間もなく修験行人派の本山となりました。多くの行者が出入りしたところから、大円寺前の坂道が行人坂と呼ばれるようになったとも言われています。その後、天台宗延暦寺派(本山・滋賀県比叡山)に属し、将軍秀忠の懐刀といわれた大僧正天海が江戸城の鬼門の守りとして、東叡山寛永寺を創建し、また江戸城裏鬼門鎮護のため、比叡山から伝教大師作と伝えられる大黒天を勧請し、大円寺に祀られました。
大円寺の大黒天は特にご利益があらたかで、東叡山・護国院、小石川・伝通院塔中・福聚院の大黒天とともに、江戸の三大黒天として崇め親しまれました。
現在、草創ゆかりの大日如来像とともに「秘仏」として釈迦堂に安置されております。今日に至るまで多くの人々の尊崇を集めている所以です。
江戸中期の明和九年(1772)の二月、大円寺から出火。火は江戸城の一部も焼き、大江戸の街のおよそ三分の一を灰にする大火になってしまいました。江戸の三大大火と呼ばれています。
「大円寺 縁起」より 2009年
幸い仏像はすべて目黒川に運び入れられて無事でしたが、幕府はいろいろな理由で、火元である大円寺の再建を嘉永元年(1848)76年間もの長い間許可しませんでした。
その間、仏像の類いは隣の風土で類焼をまぬがれた明王院(現・雅叙園)に仮安置され、大円寺の焼け跡には、明和九年の大火で犠牲になった人々の霊を慰めるため、五百羅漢像が石彫で造られ、並べられました。
「大円寺 縁起」より 2009年
大円寺の釈迦如来像は、頼朝が鎌倉に幕府を開いて直ぐの、建久四年(1193)に、チョウ然が宋の国で造らせて寛和二年(986)に持ち帰った釈迦如来像(国宝、京都・清凉寺)を模して造られました。像の高さは162cm榧材が使われています。
清凉寺の像は胎内に人間の体内にあると同様の五臓が絹や錦の布で作られ、文書や経巻・宝玉などとともに納められていますが、大円寺像には白銅菊花双雀鏡と女性の髪の毛などが納められています。生身の釈迦如来といわれる所以です。
毎年、一月元旦から七日まで、四月八日、甲子際の日にご開帳されています。
「大円寺 縁起」より 2009年
このほか、五百羅漢像の前には、品川沖で漁師の編にかかって出現された「とろけ地蔵」と呼ばれる石地蔵、境内の一隅には「三猿の板碑」、池のほとりには水子地蔵尊が祀られ、香華の絶えることはありません。
「大円寺 縁起」より 2009年
本堂は寛永元年に再建された東寺のままのものです。寺伝によりますと、芝白金辺りの寺の本堂を買い受けて移築したとありますから、文政・天保期の建築物と思われます。平成二年に大幅な補修・改修工事が行なわれています。
正面には、開運招福大黒天とともに、十一面観音像が安置されています。この観音像は藤原期(894〜1167)の作ともいわれ、高さ167cm。明王院に伝わっていたもので、江戸時代の公的出版物「新編武蔵風土記稿」にも、明確に明王院の寺宝として紹介されています。
「大円寺 縁起」より 2009年
本尊の開運招運大黒天は薩摩藩主の島津家から寄進されたものと伝えられ、「家康公の顔をモデルに天海上人が彫った」と書いている江戸時代の本もあります。
「大円寺 縁起」より 2009年
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