この阿弥陀如来像は、元弘三年(正慶二年・1333)五月、護良親王の令旨を奉じた新田義貞が上州新田庄(太田市)生品神社神前で旗揚げした時、一族郎党を率いて馳せ参じた中の一人、里見の城主・里見刑部少輔義胤入道という者が守り本尊として奉じ持参した。
以来新田軍は入間川・小手指河原・久米川と転戦し、分倍河原(府中市分梅町を中心とする一帯)に決戦、ついに北条泰家の率いる北条軍を討ち破り、鎌倉幕府を滅亡させた。
分倍河原合戦の日、即ち元弘三年五月十六日にこの尊像を椿森(府中市小柳町二丁目付近)の地に安置して戦いに勝ったので鎌倉凱旋の途次、新田義貞が神領を寄進し神社を勧請したものである。
のち此の地一帯を支配するようになった義貞の子新田武蔵守義宗は椿森神社の社殿を再建した。その後多摩川の洪水により椿森神社を含む村全体が高台に移転した。
爾来仏像は染屋山神宮寺玉蔵院(上染屋村・現府中市白糸台一丁目)に奉斎されていたが明治維新の時、住職が還俗して神主になったために廃寺となり阿弥陀如来像は行方不明になった。その後仏像は転々としてついには徳川家達公の手にわたり、同公の夢枕に立ち染谷に帰りたいと訴えたため再び上染屋の地に戻り、不動堂に安置されることになった。
昭和三年八月十七日附で文部省から国宝に指定されたことを機に上染屋八幡神社の末社である不動堂の境内に宝庫を建築し、仏像をこれに収め一般の参詣の便を図っている。その後昭和二十五年五月文化財保護法の改定により国宝を改められ、八月二十九日附をもって重要文化財(立像・彫刻)に指定されて現在に至る。(上染屋八幡神社所有)
仏像は金銅仏で、身の丈一尺五寸六分(48.8cm)重量二貫五百三十匁(9.5kg)台座蓮華形高さ四寸一分(12cm)、背銘に上州八幡庄(右に)、檀主友澄入道(左に)縁友伴氏敬白弘長元年辛酉十二月日とある。
善光寺式三尊の中尊でもと上州八幡庄(高崎市)八幡八幡宮の本地仏であったと伝えられる。
「重要文化財 阿弥陀如来像のしおり」より 2009年
鎌倉時代以降、広く流行した善光寺式阿弥陀像です。長野県善光寺の本尊は秘仏で、全くその尊容を見ることはできません。善光寺の寺伝によれば、推古朝に百済伝来の阿弥陀三尊像を本田善光が現在の地に移したのが始まりといいます。鎌倉時代頃からこの像に対する信仰が隆盛となり、それを模した像が大量に作られました。通常、この善光寺式阿弥陀如来三尊像は、中尊阿弥陀如来像、両脇侍、舟形の光背が包んだ、一光三尊形式で造られています。
染屋不動堂の像は、背部の刻銘から弘長元年(1261)上野国八幡庄に造立されたことが判ります。この像は、一時行方不明になっていましたが、巡って徳川慶喜のもとに渡り、「ソメヤに返して」とその夢枕に立ったことから、この不動堂に返され、安置されたといい伝えられています。
別鋳された台座とともに細部まで丁寧に造られ、鋳造の状態も極めてよいものです。
「東京文化財ウィークは、あなたの街の文化財に親しんでいただくための週間です。」のポストカードより 2009年
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