今日は朝からあめである。家を八時に出て水道橋駅から御茶ノ水駅まで一つ戻って、中央特快に乗り、座ることが出来た。お陰で十時の待ち合わせだが、九時十五分に国分寺駅に着いてしまった。
私は関東周辺の仏像は、「仏像観て歩き勉強会」を主宰するまでは関心がなかった。しかし、会員の中には、いろいろと訪問していて、余り目新しくないようである。
そんなことから、今回の第三十七回「仏像観て歩き」は二人の参加のみとなった。集団で拝観する時よりも一人で拝観する方が好いに決まっている。時間に縛られることも無くいろいろ考えを巡らし、更に仏像との対話も他人に煩わされることもない。
史跡武蔵国分寺跡(僧寺東北地域)
国分寺崖線
多摩川の浸食により出来た断崖が河岸段丘となって立川から大田区まで連なっているという。また、別名でハケとも言うそうである。また、このハケの下では、湧水があり、段丘に降った雨が湧水となって辺りを潤している。
史跡武蔵国分寺跡(僧寺東北地域)
武蔵国分寺の領域の北東端に作った境界である。理科の地学の勉強から日本史の奈良時代の勉強までを実地検証となりました。中でもハケという河岸段丘の呼び方とそこには湧水が起こるということを学びました。
真姿の池湧水群
多摩川の浸食により出来た河岸段丘の上部から段丘の底部までが、コンクリートの階段で整備されている。段丘の坂の部分は雑木林になっている。横に走る道もある。更に下に降りて行くと、段丘の底部に当たる平地に着く。そこには滾々と湧き出る泉がありました。
段丘に泉はセットになっていて、切り離せないものである。段丘の上に降った雨が、長い年月を経て段差を透過し湧き出てくるのである。泉で湧き出た水か溢れ、堰を越え、堀になり、小川になり、多摩川になり、東京湾に流れ太平洋につながるのである。
お鷹の道
名前だけを見たり聞いたりしてすると、お鷹さんという人が通った道ではないかと思うのである。ところが実際は領主が猟場の鷹場へ通った道であるという。それというのも、猟場である多摩川の水場への行くために段丘の底部に造られた道である。造くられるべくして造られた道である。この道には、泉から湧き出た水が堀となって流れている。泉から湧出したばかりの水は本当に澄んで綺麗である。澄んだ水が堀をゆっくりと流れている。
お鷹の道を歩いて行くと長屋門に当たる。この長屋門は昔の庄屋さんの門であったという。現在は武蔵国分寺跡資料館になっていた。受付のテーブルの上には秋が並んでいる。
武蔵国分寺の楼門
お鷹の道を更に入って行くと武蔵国分寺の前に出る。お鷹の道を挟んだ形で武蔵国分寺の本堂と楼門が対峙して建っている。朝の内は雨が降っていたのだが、楼門に着いた時には雨は止んでいた。近所の農家が雨宿り的に軒下に野菜を並べて売っていた。楼門は二層の大きな建物である。
武蔵国分寺の薬師堂
お鷹の道はハケと呼ばれる河岸段丘の底部を段丘に沿って横に走る道である。薬師堂はお鷹の道の底部からもう一度段丘を上に登らなければならない。石段を登ると段丘の中段に仁王門がある。丁寧なお寺である。本堂の方には楼門があり、薬師堂にはまた、仁王門がある。仁王門を潜り抜けるとまた石段が続く。石段を登ると薬師堂に出た。
薬師堂は段丘上部の平坦に建っているのである。多摩川の度重なる洪水を避けて、段丘の上に遁れて建てたと考えるのは考えすぎだろうか。また、楼門、本堂が底部に縦一列になり、横に外れハケの段差を利用して、仁王門、薬師堂が縦一列に並ぶ。段違い平行棒的な伽藍配置になっている。薬師堂ではすでに勤行が続いていた。薬師堂に一杯の人々が入り、中央のお厨子は開けられており、薬師如来坐像が見える。
平成23年10月10日に第五十回「仏像観て歩き」として、年一度のご開帳日に訪問する事にした。 10/10は1964年の東京オリンピック開会式の日である。同時に国分寺市の名前になっている武蔵国分寺のご開帳日でもある。そこで、去年に続いて今年も国分寺に行くことにした。更に八王子夢美術館で写真家土門拳の「古寺巡礼」の写真展をしている。
恥ずかし気もなく、市井の仏像好きが、仰々しくも「古寺巡礼」を語る。臆面もなくと叱られそうだが、それに相当する言葉がなく、亀井勝一郎や土門拳には、申し訳ないが勝手に「古寺巡礼」の題名を使わせてもらっている。使いながらも申し訳ないと思っている。
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