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古寺巡礼
仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 山梨編

名  称

ふりがな

みょうおうじ

明王寺

俗称又は愛称

山梨県南巨摩郡富士川町ツキヨネ

開  祖

沿  革

 出生は不詳、但し里人並びに代々住職の口伝によれば、藤原不比等の縁故の人という。そのことは明王寺山山頂部にある「藤塚」は上人の墓所であり、藤原氏の「藤」を用いて藤塚と称しています。
 上人は始め三論宗を学び、唐に渡り仏教の奥義を極めて帰朝し、天平神護年間に伊豆国で一寺を建立した後、北の空に輝く瑞光の源を求めようと甲斐に入り、利根川(古来は刀禰川と書く)の上流で大きな滝に至り、ここが修行の敵地として日夜苦行を重ねました。やがて不動明王の感応があり霊像を持して、山を下り現在の地に至り明王寺を開創したのでした。古来から明治の頃までは六月二十八日を上人の命日として、儀丹之滝まで登山をしていました。
 寺名は正しくを「一大聖金剛山息障院明王寺」と言い、長い寺号は古刹である証です。本尊は大聖不動明王で他に四大明王を配しています。
 開創当寺は三論宗から華厳宗東大寺末寺となり、やがて密教が伝えられ真言宗に改宗しました。古くから山岳修行の適地であった為、密教の教義を伝える真言宗京都山城醍醐寺報恩院末となり、中本寺格の修験道の道場として仏弟子を育成し加持祈祷を盛んに行い、江戸時代には甲斐国真言七談林に数えられ、法灯伝承の寺として位置づけられていました。明治二十七年から現在の真言宗智山派に属しています。また、明治の頃まで末寺として、甲斐市竜王新町の光善寺と信州佐久郡川上村の宝蔵院があり、法脈を受け継いでいました。
「大聖金剛山息障院 明王寺」縁起より 2012年

私 の 想 い

 甲府市内から富士川町に笛吹川沿いの堤防を南に向かった。そして、西から流れ来る釜無川と合流すると富士川になる。
 この辺りの堤防内側の河川敷と外側の住宅地の高さを見ると余り変わりがない。むしろ、川の方が高い所を流れているとさえ思える。天井川状態に思える。西に山を背負って明王寺は在った。寺から甲府盆地が一望出来る。

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薬師如来立像