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古寺巡礼
仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 茨城編

名  称

ふりがな

やくしじ

薬師寺

俗称又は愛称

茨城県城里町石塚

最寄駅

開  祖

沿  革

 平安時代の初め、坂上田村磨が国家鎮護を祈願するため、飛騨の工匠に寺院を建てさせたのが始まりと伝えられる。室町時代建築の本堂は、昭和32年3月、石塚大火のため焼失したが、幸いにも重要文化財の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の仏像は、町民有志の努力で火災から免がれた。
 本尊の薬師如来像は、平安時代の作といわれ木造漆箔造りで、左手に薬壷をもち、右手は説法の印を結んだ端麗な坐像で、胎内には銅製の胎内仏を安置している。昭和40年4月、近代的な手法を取り入れて本堂が再建された。        常北町
境内の案内板より  2010年

私 の 想 い

 その昔、まだ常磐自動車道のない時代に、埼玉の浦和市から常陸太田に行くのに、東北自動車道で鹿沼ICまで行って、茂木、御前山、常陸大宮を通って常陸太田まで行った。4時間か、5時間は掛かったのではなかったか。食品スーパーがホームセンターを開くことになり、そのお手伝いをしたのである。実際にお店のオープンまでには、二年位はあったのではなかったか。細かい事は忘れてしまった。
 那珂川の橋と土手沿いの道と那珂川の簗と御前山という地名を思い出す。城里町は那珂川沿いの街である。
 前にも書いたが、古い案内板のままである。如何に文化財の管理が、市町村の教育委員会任せになっているのかと、その担当者に任されているかが判る。
 同じ案内板であるが、旧市町村名でされているものを許せるか、許せないかの感覚は、人に依ってまちまちである。マサに担当者に依ってまちまちである。
 この場合で言えば、薬師三尊は国の重要文化財、十二神将は町の重要文化財で案内板のお金の出所が違うというでしょう。とわいえ、最後のところは文化庁でなく、常北町になっている。せめて、常北町を城里町に書き換えるくらいのことは在って好い。
 今日、私は新たな発見をしました。十二神将の案内板の最後は、城里町教育委員会になっている。しかも、新しく其処だけを張り替えているのである。城里町の担当者は、書き換えないといけないと思っていたのである。だが、それは城里町の権限の範囲に止まっていたのである。国の重要文化財にまでは、手が出せなかったのであろう。
 更に情けないことも判ったのである。本来、十二神将は薬師如来を守るために存在する仏像である。ところが、同じ収蔵庫に入れてもらえず、別の場所(見ていないので、)多分、本堂のどこかで、待機しているのでしょう。
 この別に保管している問題は、寺の問題なのか、行政上の国の文化庁なのか、茨城県なのか、城里町の問題なのか不明だが、本来は、同じ場所で御守りするのが筋というものである。
 何だか、行政上の権限やお金の出所や行政の不備が垣間見える「仏像観て歩き」の感がするのである。しかし、肝心な事は広く文化財の存在を知ってもらうということです。
 奈良、京都に負けない仏像が郷里に存在することを多くの人に知ってもらうことです。そのための方策をいろいろ考えて欲しいと思います。

薬師寺画像一覧その1
薬師寺画像一覧その2
薬師寺画像一覧その3
薬師寺所蔵仏像
薬師如来坐像
日光菩薩立像
月光菩薩立像
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