仏像名 |
うんちゅうくようぼさつぞう |
平等院 制作年代 |
国宝 平安時代 | |||
雲中供養菩薩像 | ||||||
様 式 |
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俗称又 は愛称 |
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製作材質 |
木造、切金文様 漆箔、彩色浮彫 |
樹 種 |
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像 高 |
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製作者 |
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安置場所 |
鳳凰堂 | |
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開扉期間 |
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解 説 | ||||||
平等院は御堂関白道長の子頼通が永承七年(1052)、に自分の別荘を寺に改めたもので、翌天喜元年に成った鳳凰堂はこの寺の阿弥陀堂の通称である。 この堂は阿弥陀堂の基本形式である方形の平面に、裳階(もこし)、翼廊、尾廊などを加えて壮麗な姿に造られ、鳥羽離宮の勝光明院、平泉の無量光院、鎌倉の永福寺二階堂などの範となるほど、名建築として名高かった。 この堂の阿弥陀如来像は、仏師定朝の確証のある唯一の作品で、その穏やかで優美な姿は、藤原貴族はもとより、広く日本人の宗教的感情に共鳴するものを持っていた。 日本人は六世紀の仏教伝来以来五世紀を経過して、ようやく日本人の仏像を造り出したのである。 平安後期は仏像が、量産された時代であった。それを可能にしたのは、一般に云われる様に、寄木造による分業方式が採用されたからであるとばかり云えない。 天皇の臨終、中宮のお産の時など、その邸宅の庭で数百人の仏師が群がって、数体の丈六仏を一気に造る事も度々あった様である。 しかし、それは、あくまで特別な場合であって、寄木造は仏像のプロポーション、その表面や内刳りの仕上げなどに、長時間の綿密な作業を必要とし、一木造の仏像より、行程はむしろ複雑にすらなっていた。 従って、平安後期に仏像の量産が出来たのは、寄木造による分業方式の採用によるよりも、定朝が仏像の典型を完成した事が、大いに、あずかっていたのである。 それは丁度、近代工業において、規格を統一する事によって、量産が可能になるのと同じ理由である。定朝によって完成されたのは仏像だけではなかった。 仏像を荘厳する軽快優美な七重の蓮華座、飛天の舞う絢爛たる光背、豪華な宝相華文様を透かし彫りした天蓋など、全て定朝の指導による作品で、以後の仏像荘厳の典型となっている。 また、長押上の白壁に配置された五一体の雲中供養菩薩像は、雲上にあるいは立ち、あるいは座り、様々な姿で奏楽歌舞して阿弥陀如来の功徳を褒め称えるが、その明るくのびのびした姿には、阿弥陀如来像には見られない、定朝の自由な一面が現れている。 これ等堂内の諸像と荘厳の具によって、鳳凰堂内はさながら、藤原美術の殿堂の観がある。 「京都の仏像」 淡交社 1968年より 鳳凰堂は、天喜元年(1053)、に、藤原頼通により造られた阿弥陀堂である。阿弥陀堂とは、当時の貴族達が欣求していた阿弥陀浄土の様をこの世に現出した建物に他ならない。それ故、内部には、阿弥陀如来像を中心に雲に乗ったお供の聖衆が、音楽を奏でながら、舞い降りてくる様が、彫刻で表わされている。 「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より 鳳凰堂内の四周長押の上の空間を飾る来迎諸菩薩衆像のうち五躯である。ほとんどが檜材の一材より彫出するもので、漆箔や彩色がなされている。 丸彫りと半肉彫りとの丁度、中間的な構造を持つ。飛雲に乗り仏を讃嘆供養するもの、奏樂あるいは歓喜踊躍の舞をする者など様々の姿が見られる。鳳凰堂の完成とほぼ時期を同じくする作品である。 「阿弥陀仏彫像展 奈良国立博物館 1972年」より | ||||||
私
の 想 い | ||||||
平等院阿弥陀堂の中の阿弥陀浄土は、4面の壁面に楽団が音楽を奏でるバックグランドミュージックのホールである。 楽団は琵琶、鼓、笙、尺八、琴、横笛等々で名前の判らないものまであり、さぞ賑やかな演奏が繰り広げられたに違いない。 しかも踊り子も付いて、オペラかミュージカルのようである。この阿弥陀堂をグランドデザインした定朝も仏師の自由な発想に任せて、飛雲に乗った菩薩を描かせている。 仏像は名前により、姿が限定されてしまう。ところがここの雲中菩薩や十二神将では、姿の制限を受けないだけに、いろいろな姿を見る事が出来る。それだけに仏師たちも張り切って趣向を凝らしている。 どんな音楽が奏でられたのだろうか。モーツアルト、ベートーベンかな。 |
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飛天と雲中菩薩の考察 |