榧の一木から彫られています。お顔の相や衣の様子から中国よりの渡来仏か、渡来人の作の両説がある。
座り方は半跏踏み下げの像、遊華座とも呼びます。白毫は水晶、瞳は黒曜石。上の手は生老病死などの恐れを取り除く(施無畏印)、下の手は、願いを叶える(与願印)という印です。
「願徳寺」縁起より
宝菩提院は鎌倉時代に京都に移って来た寺で、その前には、この地に願徳寺という寺があった。
もと乙訓社にあった薬師如来像が、仁明天皇の時代(833〜50)、に勅命によって願徳寺に移されたと伝えられているから、古い寺であった事が判る。(この薬師如来像が貞観六年(864)、に広隆寺に移された事は、広隆寺の真達羅大将像のところですでに述べた)この寺の位置は延暦三年(784)、から十年間帝都であった長岡京の北端に当たる。
長岡京遷都に際して、山城一帯に勢力を持っていた、帰化人秦氏の力に頼る事が大きかったが、願徳寺は帰化人が厚く信仰していた寺であった。
最近の長岡京発掘調査により、今までの認識が改められ、長岡京は平安京への単なる足掛り的なものではなく、帝都としての諸設備を、ほとんど整えていた事が明らかになったが、願徳寺もこの時期に秦氏の寺として、拡大整備されたと考えて良いだろう。
この菩薩半跏像も、長岡京時代の願徳寺の盛んな有様を偲ばせる遺品で、その作者には遣唐使と共に来朝した唐人が想像されるほど、この頃の一群の仏像を除いて、前にも後にも類似する作風を見る事が出来ない。
もし作者が唐人であるとすると、その来朝の時期は、遣唐使が帰国した宝亀九年(778)か、天応元年(781)のいずれかであろう。
髻の華やかな結び方、黒石を入れた瞳、凛然として張りのある容貌、複雑に入り交じる深い布の皺、側面も背面も念入りに造られ、まとまった立体感を表わしている点など、まさに唐の新様式の仏像を見る思いがする。
この様な一木造像は、先に鑑真帰朝の時、もたらされた一木彫技術と相まって、九世紀以後の日本彫刻に大きな影響を及ぼした。
新都長岡京の人々は、願徳寺に安置されたこの新奇な仏像を拝して、いよいよ唐文化に対する畏敬の念を増した事であろう。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
天平時代後半頃から、平安初期にかけて、唐の新しい様式が次々に入って来た。この宝菩提院の菩薩半跏像も、そうした新様式の影響により制作された木彫の一つである。しっかりした体躯のつかみ方、頼もしい顔付き、複雑に乱れる衣文線などは、この像の特色である。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
かつて向日市寺戸町に所在した宝菩提院に伝来した像で、寺伝では如意輪観音といわれている。宝菩提院は願徳寺とも称し、平安時代の初期には、近くの乙訓社で造立され、やがて京都・広隆寺に移されることになる霊験薬師仏を安置していたことで著名である。
この像は京都市西区大原野の勝持寺(花の寺)に一時移されたが、現在は勝持寺の近くに近年復興した宝菩提院願徳寺に祀られている。
左膊半ばから先、両足先などを除いて、本体から台座の蓮肉までを含み、カヤと見られる針葉樹の一木から彫出し、内刳りは施さない。瞳に黒い珠を嵌入し、上瞼から眉の間の眼球面を盛り上げた顔立ちは異国的で、なまめいた表情を示す。
胸から腹部に至る肉取りは柔らかで、腹部のくびれや臍周辺の起伏も自然である。こうした体を覆う着衣の表現も完璧で、身体にまといつく柔らかく軽い衣の質感と、そこにできる複雑な衣文、衣の下から輪郭だけを示す脚部や台座蓮弁の様子、さらに条帛と天衣が複雑に交叉し、それぞれにできる衣文の状態がきわめて写実的に表現されている。
さらに、頭上で髪束を華やかに結い上げ、天冠台の正面と左右に配された環状の飾りの中から頭髪が通り、髪束が耳をわたる様を、髪の質感とともに表現している点も特筆される。このようにこの像は、肉体とそれを覆う衣との関係を的確に把握しながら、細部の一つ一つの造形が有機的に結びつき、全体との調和が図られている。
こうした造形の質は、奈良・法隆寺の九面観音菩薩立像に代表される唐時代の檀像と共通するものであり、この像は代用材による中国からの請来檀像、ないしはそれと密接な関係を持って造られたと考えるべきだろう。
この像がどんな環境の下に造られたかは不明であるが、近年、その図像的な分析から虚空蔵求聞持法の本尊形に基づく像とし、空海が京都・長岡京市の乙訓寺に在住していた時に造られ、それが後に願徳寺に移されたとする説が出されている。
そして、弘仁三年(812)に乙訓寺を訪れた最澄(767〜822)に空海が示した「二部尊像」の一体にこの像が当たるとし、その時までにはこの像は造立されていたとする。
この像のように優れた造形を示す像が造立ないし受容される状態としては、然るべき背景を想定すべきだろう。この像の造立に空海のような時代の先端を行く人物が介在したことは十分に在り得るし、願徳寺と乙訓寺が地理的に近いことからも上記の説は魅力的ではあるが、京都・東寺講堂像に典型的に示された真言密教系彫像とこの像の作風がかなり、かけ離れている点に、やや疑問が残る。
この像の造像背景を考える上で、大阪・道明寺の十一面観音菩薩立像が瞳に黒い珠を嵌入した唐風の強い代用檀像であり、造形の質において、この像と通じ合うものがあることは注目してよいだろう。道明寺は土師寺とも呼ばれ、土師氏の氏寺として創建された。
また、桓武天皇の母后高野新笠(生年未詳〜789)の母も土師氏出身であった。土師氏は向日市と隣接する西京区大枝辺りに勢力を持っていたことが知られ、新笠の御陵も所在している。宝菩提院が長岡京の京域に含まれ、新笠の母方の出身地とも地理的に近いことは留意され、この像の造立背景に光仁朝および桓武朝の宮廷の動向が反映している可能性も考えてよいだろう。
「仏像 一木にこめられた祈り」展 東京国立博物館 2006年より
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