仏像名

 あみだにょらいざぞう

長岳寺

制作年代

重文

平安時代

阿弥陀如来坐像

様 式

仁平元年(1151)

俗称又

は愛称

 

 

製作材質

木造、玉眼

漆箔  

樹 種

 

像 高

143cm

製作者

 

安置場所

本堂

 

開扉期間

 

解 説

 この三体の仏像は当寺の本尊で、阿弥陀三尊として一組である。体内に「願主憲幸、仁平年歳次辛四月始」の墨書銘がある。

藤原時代末南部仏所の仏師による造像であるが、始めて玉眼を使用している点、及び堂々たる量感と、はりにある肉体付け、随所の曲線に表わされた力強さ等は、これまでの藤原時代仏像に見られない迫真性がある。

これは次代の鎌倉時代に隆盛を極めた康慶、運慶の新様式への先駆けとなっている。

「長岳寺縁起」より

 

 密教と浄土教が新たに興った平安時代は仏教の種類、数がぐんと増えた。これに伴って寄せ木造りなどの新技法が開発された。目に水晶をはめ込む「玉眼」もその一つ。平安末期に造られた長岳寺の阿弥陀三尊像は玉眼を用いた最も早い作例として知られる。

 三尊像は本堂に安置されている。写真は中尊の阿弥陀如来坐像。脇侍の観音、勢至両菩薩は片足を垂らして座る。目に注目すると、三尊とも黒い瞳に光沢がある。白目が雪のように白い。彫刻で目を表す彫眼に比べ、眼球に潤いや輝きがあり、人の目に近く、写実的だ。

 玉眼は目の部分をすっぽり刳り抜き、像の内側から薄い凸レンズ状の水晶を当てる。水晶の凹面に墨で瞳を描き、後ろに真綿か和紙を当てて白目とする。全体を当て木で押さえ竹釘などで固定する。

 水晶を内部からはめることが玉眼技法の最大の特色だ。寄せ木造りは内部の木の芯を刳  取るので頭部は空洞になり、目の部分だけ刳り抜ける。玉眼は寄せ木造りの普及が技術的な前提となって生まれたと考えられ、ともに日本独自の木彫技法とされる。

 長岳寺の阿弥陀三尊像は玉眼を用いた仏像の中で最古となる「仁平元年(1151)」の造像年が中尊と勢至菩薩の像内に墨書されている。平安末期の院政期である。当時の京都の貴族たちは何事にも華麗で派手な美しさを求めた。仏像も穏やかで華美な定朝様式が好まれ、次第に型にはまって類型化していった。

 長岳寺の阿弥陀三尊像を改めて見ると、どっしりとして力強い。深く刻まれた衣のひだは幅が狭くなったり、広くなったりし、所々に折り返しもつけ、型にはまらず、のびのびしている。三尊像は玉眼だけでなく、作風も同時期の京都の仏像にはない清新さがある。

作者は不明だが、奈良仏師と考えられている。

 玉眼は写実彫刻が発達する鎌倉時代に真価を発揮した。鎌倉彫刻を代表する運慶の初期の傑作で玉眼が用いられている奈良・円成寺の大日如来は長岳寺の三尊像の25年後に造られる。三尊像は鎌倉写実彫刻の先駆となったのだ。

「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2014.01.25.

 

 中尊阿弥陀如来像と勢至菩薩像の像内に記された墨書銘から、仁平元年四月の造像開始時期と、憲幸という願主であった僧侶の名前が知られる。制作年代のはっきりしている仏像のなかでは、鎌倉時代以降に一般化する玉眼の技法が用いられた最古の作例である。玉眼だけではなく、肉付きのよい体躯や深く刻まれた丸みのある衣文などに、いちはやく鎌倉彫刻が先取りされている。定朝様という起伏の少ないおだやかな様式の全盛期であった十二世紀半ばにおいて、きわめて斬新な作風を示す本像は、奈良を拠点に活躍した奈良仏師の作として、これまでにも大いに注目を集めてきた。

 この阿弥陀如来および両脇侍坐像(以下、阿弥陀三尊像とする)には、多くの点で、奈良時代彫刻にならった表現がみとめられる。両脇侍の片足を踏み下げる半跏坐という座り方や、手の構えが左右対称でなく同じであること、両脇侍の頭部を中尊側にわずかに傾ける姿勢などは、奈良時代(八世紀)の作である奈良・興福院の阿弥陀三尊像に近い。衣文についてみれば、中尊の衣端に沿って内側に一本の刻線を引くことも、古く金銅仏や、奈良時代に流行した塑像に類例の多いことが指摘されている。

 また右ふくらはぎ上に表わされる三角形状の衣のあしらい(衣文線の刻み方)や、松葉形衣文とも呼ばれることのあるY字形の衣文は、この後、康慶作の興福寺南円堂の不空羂索観音坐像や運慶作の願成就院の阿弥陀如来坐像、浄楽寺の阿弥陀如来坐像に継承されていくものである。

 本阿弥陀三尊像はともに、頭・体の主要部分を複数の材を組み合わせる、寄木造りの技法で造られている。ただし、像高140cmの像としては、きわめて複雑な用材の用い方をしており、主要材の間に複数の小材を挟んでいたり、両脇侍では頭部と体部の接合に筒状の材を用いていたりする点がきわめて特殊であるといえる。

 こうした用材の使い方は、奈良仏師・康助の自筆文書に記された。木材の特殊な注文のあり方と関連づけられてきた。たしかに、主要材に小材を挟みこんで整形する手法は、近年見出された、康助その人の真作である久寿二年(1155)の安楽寿院不動堂の不動明王坐像(現在の京都・北向山不動院像とする)や、康助ないしは康助周辺の作とみられる応保二年(1162)頃の東京国立博物館の毘沙門天立像にも通じるところがある。

 いずれにせよ、本阿弥陀三尊像の作者が奈良仏師であることは異論のないところで、奈良仏師を介して、奈良時代彫刻の表現が康慶・運慶へと受け継がれ、次代に大きく飛躍することとなったのである。

「運慶展」図録より 東京国立博物館 2017.09.29.

 

私 の 想 い

玉眼入りをした仏像では、最古のものと云われている。上品上生の印を組み、会津の勝常寺の薬師如来像と同時代のためか、作風が似ている。

暗い堂内で、玉眼入りと聞いている所為か、眼が異様に輝いて、無気味である。自分の眼が堂内の暗さに慣れてくると、本尊の唇に朱が刺してあるのが判る。

三体とも黒漆のてらてらとした肌をしており、眼のみが鋭く我々を見据える。脇時の二体とも半跏像で垂れ下げた足の指先が印象深い。

 偏袒右肩の服装である。眼の縁が白く、最近の女性の化粧に似ていて、暗くても眼だけは判る。五段の蓮弁の蓮華台に座る。

 平成29年9月に東京国立博物館で「運慶展」が開催されました。運慶の親や息子達の鎌倉時代慶派一族の仏師の作品が集められた展覧会がありました。

 今日、ここで考えたいのは、三尊形式の脇侍像が本尊を中心にして、左右対称形になっているか、なっていないかということと、どんな関係になっているかを考えたい。

 三尊形式には、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の3つがある。つまり本尊の如来像+脇侍像の二菩薩像である。本尊像が立像であったり、坐像であったりの2つがある。脇侍像も立像、半跏像、坐像の3つが考えられる。

 そこで今回の長岳寺の阿弥陀三尊像は、本尊の阿弥陀如来像が坐像で、脇侍像の聖観音と勢至菩薩が半跏像である。坐像+半跏像の組合せとなっている。細かく観察して観ると脇侍像の上半身は、左右同形であり、半跏に組んだ脚と垂らした脚が左右対称形になっている。三尊形式の左右対称形で考えた場合は、上も下も全部が左右対称形になっていることが多い。

 奈良・興福寺仮金堂の釈迦三尊像の場合は、薬王菩薩像と薬上菩薩像の二躯であり、二人は兄弟だという。この二像は、立像であり、更に左右の腕も、左右の手の指先まで左右対称形であるから、まさに鏡に映したように左右対称形である。非常に珍しい仏像である事を知って欲しいと思います。

 また坐像では、神奈川・覚園寺の薬師三尊像が本尊の薬師如来は坐像であり、脇侍像の日光・月光像も坐像で、しかも結跏趺座の坐像片方の脚を前に投げ出し、組上げない脚が左右対称形になっている。

 

 

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