浄光明寺は、開基を第六代執権・北条長時、開山を真阿とする。はじめは浄土宗で、後に真言・律・禅を兼学するようになった。現在は真言宗。
室町幕府が鎌倉に置いた政庁の鎌倉公方の菩提寺でもあり、足利氏とのゆかりも深い。
「日本の仏像 高徳院鎌倉大仏と鎌倉の古仏」より 講談社 2007年
当寺は鎌倉市扇ヶ谷字泉ヶ谷間に位置し、泉谷山と号し真言宗。本山は皇室御菩提所として知られる京都東山泉涌寺。創建は建長三年(1251)で開基は武蔵守北条長時(幕府第6代の執権)、開山は真阿和尚(勅謚真聖国師)です。
第2世は永仁四年(1296)真阿和尚より当寺長老職を譲りうけた真了房、第3世は月航和上性仙房道空で、この人は律に秀でた学僧でした。第4世は智庵和上如仙房高慧で、当寺はこの時代に大いに発展しました。
即ち元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、浄土(諸行本願義)・真言・華厳・律の4個の勧学院を建立し、学問の道場としての当時の基礎を築いています。又智庵和上に対する足利尊氏、直義兄弟の帰依も厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進等が行なわれたことを書いた古文書が当寺に残っています。
建仁二年(1335)尊氏は、中先代の乱で鎌倉を追われた直義救援のため、勅許を得ずに東下し鎌倉に入りましたので、天皇は新田義貞に、尊氏追討を命じ関東へ、下向させられました。
苦悩に疲れた尊氏は近臣数名と共に、最も帰依していた智庵和上のもとに参じ、箱根竹の下の戦いに発向するまで、当寺に蟄居していました。第5世以降の住持については詳でありませんが、室町時代に入っても鎌倉御所の祈願所として、瑞泉寺殿(足利基氏)、永安寺殿(足利氏満)の分骨を納め、代々の鎌倉公方から寺領安堵を受け寺勢大いに振るっていたようです。
鎌倉御所の滅亡と共に当寺も衰微し、その後文明、寛文の2回に亘って興隆されましたが、数度の天災、人災によって往時の栄華は殆ど失われました。
諸堂の配置は、山門を入って右に不動堂、左に客殿、庫裡、石殿を上って正面が本堂、その左に収蔵庫(重文阿弥陀三尊像、県文矢拾地蔵菩薩像安置)、その奥が観音堂であります。本堂右手の山上に鎮守稲荷大明神の祠があります。
「泉谷山 浄光明寺」略記より 2008年
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