仏像名

とばつびしゃもんてんりゅうぞう

教王護国寺
制作年代

国宝
唐時代

兜跋毘沙門天立像

様 式

俗称又
は愛称

製作材質

木造、漆箔
彩色、練物盛上

樹 種

像 高

189cm

製作者

安置場所

宝物館

開扉期間

解 説

平安京造営の時、東寺と西寺の二つの大寺が建てられた。両寺は、いずれも遷都直後に造営に着手し、天長元年(824)には、弘法大師空海が造東寺所別当となり、その翌年には、教王護国寺と寺号を新たにして、真言密教の道場としての基礎が固まった。
 この兜跋毘沙門天の像は、この教王護国寺に伝わる古仏で、もと羅生門の楼上に置かれたと云われている。毘沙門天の像は、四天王像の一つとしては、飛鳥時代より遺品があるが、この像は、それ等とは全く異なり、藍婆、毘藍婆の二夜叉に囲まれた地天の両手に、その両足を支えられて立った姿に造られ、服制、面貌、形相等もそれ以前のものとは違っている。
 こうした姿の毘沙門天は、平安朝以前には存せず、唐よりし新しく渡って来た様式により造られたものであろう。
 本体の瞳及び両肩、胸、腹部の獅喰(ししがみ)の瞳にも黒曜石を入れており、保存も悪い方ではない。ただ、顔の両側に垂れている天冠帯、持物の塔、地天の宝冠等は後補である。
日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より
 兜跋というのは、西域地方に来たチベット人をそう呼んでいたらしい。兜跋毘沙門天とは恐らく彼等が信仰していた西域風の毘沙門天の像という意味であろう。作風も極めて異国風であるが、材も中国産のもので、恐らく唐人の作と考えられる。
 この像は、もとは、平安京の羅城門の楼上に王城鎮護のために安置していたものであるが、羅城門の転倒後、東寺に引き取られ、現在同寺の宝物館に祀られている。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より

 四天王のうち多聞天が単独で造られると毘沙門天と呼ばれるが、兜跋毘沙門天はその中で、地天女の掌の上に立つ形式のものを呼ぶ。この像は中国で造られたと考えられるが、その姿は特異で、鎖を編んで作られる裾長の金鎖甲をまとい、腕には海老の甲のような籠手を着ける西域風である。宝冠の正面には鳥、左右には武装像を表す。両目の瞳には黒色の別材が嵌め込まれる。左の瞳は目の中心にあるが、右は目頭よりにあり、視線を左下方に向ける。今は失われた、左手に持つ塔を見ると思われる。口をわずかに開いて上歯列がのぞく。胸甲には鬼面を左右各一つ表す。両肩には歯牙を剥き出しにする獅子が表され、やはり瞳には黒色の別材が嵌め込められる。地天女は雲から現れ、その向かって右に尼藍婆、左に毘藍婆の二鬼が従う。それらの瞳にも黒色の別材が嵌められる。
 中世の記録では、この像は、もともと平安京の出入口であった羅城門に安置されていたと伝える。中国では、城門に毘沙門天を安置すると王城守護の役割があると信じられた。滋賀・石山寺、福岡・観世音寺には九世紀半ば頃に造られたと考えられる兜跋毘沙門天像が残るが、石山寺は平安京の東方への出入口、観世音寺のある大宰府は外国への出入口といっていい。それぞれ平安京と日本を守護することを期待して安置されたのではないだろうか。
 石山寺の像は地天女の掌の上に立つほかは、通用の毘沙門天像の姿であるが、頭部を正面に向けながら右の瞳は目頭よりに表す点や、胸甲に鬼面、彩色ではあるが金鎖甲を表す点などは、東寺像のものを取り入れたと考えられる。このことは、石山寺像が造られた九世紀半ば頃には、本像は広く知られる存在であったことを意味しよう。羅城門に安置されていたという伝承もあるいは事実に即したものかも知れない。
「空海と密教美術」展より 東京国立博物館 2011年

 東寺の国宝兜跋毘沙門天立像は中国・唐からの渡来仏で、異国色の濃い武神像として多くの仏像ファンに注目されてきた。模様もかなりあり、同形の毘沙門天像は各地の寺院や博物館でも拝せる。
 毘沙門天は四天王の多聞天と同じ神で、一般的に単独尊のとき毘沙門天と称される。そのうち兜跋の名が付く毘沙門天は、古書に中国西域の都城に出現して外敵を撃退したとあり、中国や日本では古くから王都の守護神として、城郭の楼門などに立ってきた。だが、その語源がはっきりしない。
 字義や像容からは、兜をかぶって地神の住む大地を踏む神と解せるが、定説はない。中国西部の吐蕃(トバン・古代チベット)に兜跋の字を当てたという見方などがあり、最近は持物の宝塔に関わる言葉という説も唱えられている。
 霊験を誇るこの西域の武神は日本にも伝来し、平安京の正門羅城門に奉安された。それが東寺の現国宝像だ。平安時代に門が壊れて約400m東の東寺へ移され、食堂などに安置、現在は宝物館に収まっている。
 用材は京都嵯峨・清凉寺の国宝釈迦如来立像と同じ中国産桜材。細部を練り物で作るなど唐の技法も顕著だ。日本の兜跋天像の原像とされ、以後は和風化しながら基本形を保ち、毘沙門天の一典型として仏教美術史に定着した。
 宝物館で国宝像の前に立った。少し腰をひねり、どんぐり目と眉を逆立てる。口はこぶり。右手に戟を執るが、左手の宝塔は欠失。四面型の宝冠をかぶり、鎖を編んだ裾長のよろいに籠手と脚絆を着ける。でも、あまり怖くない。衛兵か儀仗兵の姿である。
 足元の台も特殊だ。上半身の大地の神・地天女が尼藍婆と毘藍婆の2鬼を従えて両手を上げ、その掌上に毘沙門天が立つ。この形式は東寺講堂の和製多聞天立像(国宝、平安前期)にも採用され、日本の仏像制作に大きな影響を与えたことをしのばせる。
 再度、国宝像の前へ。特異な武装姿だが、小顔で細身、くびれ腰、腰高で足長。一瞬、宝塚歌劇の男役スターの雄姿が顔をかすめた。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2014.03.15.

私 の 想 い

有名な外国製の国宝、兜跋毘沙門天である。目鼻立ちはやはり外国人風である。腰の位置の高い脚の長い人である。地天女は力があり、両手を開き気味に支えている。
 顔もすずしいお顔をしている。地天女の脇に座る邪鬼も目を真丸に開けて腕組みをしている。
 右手は脇を大きく開けて、肘を深く折って、戟を持つ手首は内側にして握る。左手は脇を少し開けて、肘を深く折って手の平を上に向けて開いている。眉を吊り上げて眼を見開いて、睨むというより、笑っているのかも知れない。
 平成23年7月に「空海と密教美術」で東京国立博物館に来た時には次のように書いた。
 左手を拡げて、どうぞと云わんばかりに差し出す。足元には、地天女が涼しい顔で毘沙門天を両手を拡げて乗せる。地天女の両脇で邪鬼もその手を支える。腕組みをして天を睨む。左の邪鬼も天を見る。共に二の腕に二つの指を立て支える。地天女の後ろ側には、唐草文様が描かれている。 毘沙門天の裏に回って観る。変化に乏しく、魚市場の作業員がするゴムの前掛けのような、ペロンとした一枚の布を掛けていた。バックルを噛む獅子噛みが睨む。二の腕の獅子噛みは、玉眼が光る。バックルと二の腕と三か所にある。

兜跋毘沙門天立像画像一覧その1
兜跋毘沙門天立像画像一覧その2
兜跋毘沙門天立像画像一覧その3
兜跋毘沙門天立像画像一覧その4
兜跋毘沙門天立像
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教王護国寺画像一覧その1 教王護国寺の写真が楽しめます。
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宝物館所蔵仏像
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兜跋毘沙門天立像 伝武内宿禰坐像
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