右手は肘を横に肩の高さに上げ、手を真上に上げてグーを握る。左手は肘を伸ばし下に降ろす。そして、グーを握る。持国天と左右対称形になっている。
邪鬼は四つ這いの亀と同じで甲羅から首を出す。特徴的な事柄だけで事実と全く関係ないのだろうが、二つ程、不思議に思っていることがある。
一つは、この立花毘沙門堂もそうだが、前回、前々回に紹介した、成島毘沙門堂、藤里毘沙門堂とこの北国には、滅多矢鱈と毘沙門天が多い。中でも、兜跋毘沙門天が多いように感ずる。
ご承知の通り、毘沙門天は北方の守り神ということである。北方との争いが頻繁に行なわれ、常に北方を念頭において、守備を重ねないと往けない状況が続いたのだろう。
そこで、頼むのは北方の守り神である。それらの状況を考えると、北方のアイヌ民族との永年に渡る抗争が、毘沙門天に象徴されているのではないかと思うのである。
それだけに、アメリカインデアンが土地を追われたのと同じように、アイヌの人達も、狩猟という手段しか持っていなかった。そのために、水稲を生活手段にしていた人達に、土地を追われ、その度毎に、争いが起きたのではないだろうか。
二つ目は、四天王が省略されて、前衛の二天形式が多い。別な考え方では、広目天を除いた三天形式とでもいえる三尊である。
いずれにしても、アイヌの人達を排除することが前面に出た、宗教政策であったのではないかと勝手に歴史を偏向して考えている。
平成24年5月に第五十八回「仏像観て歩き」東北編で「仏像観て歩き」の仲間と訪問したときには、次のように書いている。
この毘沙門堂の二天像は、四天王像で四方を守護するのが、本来の役目なのだが、省略して前面の二躯を取り出し、前面の門番の役割を持たしている。門番となれば、仁王像があり、仁王像は阿吽の姿で寺の前面を守っている。そして、その対応の仕方も阿吽あり、左右対称形ありとなり、造形上も自ずと決まって来る。
本尊を挟んで、左右対称形と阿吽の姿で拝観者を迎える。また、如来像の三尊形式でも脇侍像が左右対称形のものが多い。それを守護する四天王像も前面の持国天像と増長天像が、阿吽で左右対称形のものが多い。
中尊寺の三基壇共に脇侍像も前面の二天像もこの典型的な組合せの仏像群である。私の中で不思議と思っているのだが、ここでも増長天像を多聞天像と疑問を指摘しています。更に、福島・願成寺(白水阿弥陀堂)では、二天像の向かって左像を多聞天像としている。この寺は、徳姫(二代基衡の妹とも三代秀衡の娘とも言われる)が夫の岩城則道の霊を慰めるために造像したという。とすれば、多聞天像ではなくて、増長天像が自然ではないかと思っていた。
ところが、この毘沙門天堂で疑問を指摘されて、迷っている。さてさて、どちらが正しいのやら、判らなくなって来る。本尊が毘沙門天像で前面の二天の一つも多聞天像(毘沙門天)とするも可笑しなものである。いずれ又、決着を着けることがあるだろう。
|