この像は日羅の肖像と伝えられるが、日羅は敏達天皇のころ百済にいた日本人の子で賢明のきこえ高く、召されて帰国し、国政を諮問された人というが、橘寺との結びつきは不明である。
おそらく聖徳太子が彼に師事したという伝説と橘寺が太子の創建になるところから生れたものだろう。像形から見ればむしろ地蔵菩薩像と思われる。蓮肉とも一木で、刀の刻みも鋭く、全体に簡素な手法でまとめられており、衣文も翻波式だが、自由で少しも形式化していない。
「仏像ガイド 美術出版社 1968年より
円頂で大衣・偏衫・裙を着ける姿は地蔵菩薩のものであるが、寛政四年(1792)に行われた寺社の宝物調査記録である「寺社宝物展閲目録」では、すでに「日羅木像(剃髪僧衣)」
と記されている。
「日本書紀」によると日羅は、583年に敏達天皇によって百済より、日本に召されて国政を説き、後に随身に暗殺されたという。そこでは仏教との関わりは何も語られないが、後の聖徳太子信仰の高まりの中で太子の仏教上の師とされるようになる。
橘寺には聖徳太子建立の伝えがあり、それが橘寺と日羅を結び付けたと思われるが、寺には他にも剃髪僧衣の姿である地蔵菩薩像があり、その像ではなく本像をして日羅といわしめたのは、「聖徳太子伝暦」で日羅を「異相」者と述べているためかも知れない。
本像が日羅として造像されたものでも無い事は推測に難くないが、明確に表わされた髪際線、面を取って表わされる弧状の眉、左に捻る腰に合せて左下方に視線を向ける切れ長の目、写実味のある口元、といった異相の風貌は、「お地蔵さま」のイメージでは捉え難い。
その異相の表現で想起されるのは、平安時代初期の僧形像は、本来神像として造像されたのではないかとする意見である。全てを神像とするには無理があるが、仏像の形式を取り入れた神像は多く、それが像に超越性を付与する手段であったならば、神の表現が確立されていない初期の神像が仏そのものの姿で表わされた可能性は在り得よう。
両手首先を除いて蓮肉を含めて桧の一材より彫出するという構造であるが、小さめの頭部とすらりとしたプロポーションには、九世紀前半の重厚さの表現は認められない。
また、正面では左に捻る腰も、背面ではその様子を思い起させるに足る表現は成されておらず、整理された衣皺線と共に時代の降下を示し、九世紀中頃の造像と考えられよう。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より
明日香村に所在する橘寺に伝来した僧形像で、寺伝では日羅(生年不詳〜583)の像といわれている。日羅は「日本書記」によると百済の日系官人で、敏達天皇(生年不詳〜585)要請で来朝し国政を説いたが、百済に九州方面の侵略計画があることを漏らしたために、同行の百済人に殺されたことが知られる。
しかし、平安時代末から鎌倉時代にかけての聖徳太子信仰の盛行の中で、日羅は聖徳太子(574〜622)の仏法上の師で、百済の渡来僧とされるようになる。この像を日羅像とする記録は一八世紀までしか遡りえず、当初から日羅像として造られたかについては何ら確証がない。
橘寺は奈良・法隆寺とともに聖徳太子によって創建された七寺の一つに数えられ、太子信仰と密接に関わることから、この像はもともと地蔵菩薩ないし僧形像として造立されたが、後に日羅に仮託されたと考えるのが妥当だろう。
両手先が後補であるほかは、頭部から蓮華坐までを針葉樹の一木から彫出し、内刳りは施さない。像の表面は彩色で仕上げる。大きく弧を描く眉、切れ長の眼、小さな唇など異国的な風貌を示し、眉を額の面より一段高く彫り、かつ面取りで表わしている点も唐風である。腰を左に捻り、右脚をゆるめて立つ腰高の体形は伸びやかで、像にすがすがしい印象を与えている。
衣の彫りは深くかつ鋭いが、腹部の波型を描く太い衣文や、左肩の茶杓形の衣文は捻塑的で、下半身の微妙な動きによってできる衣文を、衣の柔らかな質感とともに見事に表現している。唐風の強い顔立ち、腰高な体形、柔軟な肉体や衣の表現など、天平彫刻の余風を濃厚に伝えている。
制作時期は従来九世紀半ばに置かれることが多いが、さらに遡る可能性はあると思われる。この像においても、本来地蔵菩薩として造られたか、僧形神像として造られたか、議論があるが、そのややなまめいた表情には、一般の仏像とは異なる一種の人間味が感じられ、本来の尊名についてはなお検討の余地があるといえよう。
「仏像 一木にこめられた祈り」展 東京国立博物館 2006年より
|