古寺巡礼
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仏像観て歩き 奈良編4

名  称

たちばなでら

橘寺

俗称又は愛称

高市郡明日香村橘532

最寄駅

開  祖

沿   革

 聖徳太子によって建立されたこの寺は、堂塔の整った大伽藍であったらしい。日本書紀によると、天武九年(681)四月十一日、橘寺の尼の房を焼いた、という記録がある。もともとは尼寺として建立されたのであろうか。そういえば、万葉集巻十六に
橘の 寺の長屋に わがいねし 童女放髪は 髪あげつらむか
という歌が残されている。
 当時七堂伽藍のほかに、尼僧らの住む棟割長屋式の庫裏も多くあって、この歌に詠まれているようなことも、あったのであろうか。
 その後、再三の災害にあったであろう。江戸時代には荒れ果てた仮堂が一つ残っただけと言う状態であったのを、一人の篤志家が私財を投げ打って寺の再興を図ったのが現在の寺観である。
 東門から境内に入ると、正面に本堂、左に鐘楼、塔跡、宝蔵、経蔵、畝割塚。右に庫裏観音堂、護摩堂がある。
 昭和二十八年の発掘調査で、伽藍は四天王寺式の配置であることが確認されたが、この時掘り出された塔の中心柱の礎石は、今もそのままにしてある。
 中心柱の礎石は塔の基壇の地下深くに据え付てあり、特に印象的なのは、その柱座となる彫り込みである。丸い柱を入れる円形の彫り込みの三方に、小円をくっ付けた形。これは正しく橘の図案化ではないか。
 ところが、この三つの突起を付けたことは、単なる図案ではないともいえる。塔の心柱に添木をして補強することは法隆寺五重塔にも見られるところである。その添木も共に、はまり込む柱座の彫り込みを造るとすれば、添木が三本あればこのような形になる。
 そう考えると、これはデザインではなくて、実用のための形である。用と美の、微妙な結合ではないか。
 本堂の南にある二面石は、善悪業界の象徴であると寺では説くが、いずれ猿石や亀石と系統を同じくする帰化人系の残した石造品であろう。
 ほかに平安時代の日羅像、地蔵菩薩像、如意輪観音像、室町時代の太子像などがある。
「飛鳥」 青山清・小川光三著 より

 昭和45〜47年の間に5、6回は来ている。しかし、仏像の件で来たのではない。飛鳥の故事来歴の場所を松井群山先生に連れられて来たのである。そんな事で日羅像だけは拝観した記憶がある。久し振りに来て見て気付くのは、川原寺跡の直ぐ南に橘寺がある。
 私の頭の地図では、川原寺跡がもう少し西の下に降りたところにある。亀石の次にあり川原寺跡、しばらくして橘寺となっている。実際は、道を挟んで直ぐ南にあった。
  まだ、三時で時間もあるし、明日香も近い。橘寺に行く事にする。昔、岡寺と言う名前の駅を飛鳥駅とした。田口を妙高高原に信濃四谷を白馬駅に変えたように勝手に変えた。
 川原寺跡に来た。あれ、川原寺跡は道から離れて、礎石があったはずだが、その手前にも礎石が地上に出ている。どうも、うそ臭い。だって33年前は田んぼだったのが突然礎石の公園になっているのである。
 ここまで来ると、観光もやらせの部分が多くなって、歴史的に問題がありそうだ。掘ったら、そこにあったので、そのままでは、観光にならないので、埋め戻して、同じ位置に礎石を並べ直したのであろう。
 この川原寺跡の道を隔てて、橘寺である。駐車場に入れて、受付に行くと宝物館で特別公開をしていますと説明を受ける。また、
「こちらは裏門ですから、表からも観て下さい」
という。また、切っ掛けは忘れたが、作家の井上靖のことになり
「井上さんは、毎日新聞の大阪で社会部長をされており、その当時に仏像に関心があり、
以来作家生活後も、仏像を観て来たようです」
と作家井上靖を語ってしまった。
「私も井上さんが好きで、湖北の十一面観音は観に行きました」
という。私と同様に井上靖さんに触発されている人がいた。
「私も去年行きました。織田信長のためにどれだけ多くの湖東、湖北の仏像が焼き壊された事か、彼のやった事は、「七人の侍」と同じ夜盗である」
と一席ぶった。
 ここの観音堂で、思わぬ美人の如意輪観音像に出会う。やみつきに成りそうである。何遍も来て居て、知らなかった。群山先生は仏像にはあまり興味のない人でした。
 ここで語らなければならないのは、二面石である。石の両面に顔が彫ってある。写真をご覧いただければ、判りますがその一方の顔が、俳優の伊藤雄之助に似ていると思ったのである。
 また、黒澤映画で恐縮ですが、「椿三十郎、いや、四十郎」の最後の場面で、彼は
「馬が丸顔」
といって、にやりと笑い、得意顔お後がよろしいようで、今日はこれにて御免。
 隠し球を披露しよう。
昨日寄った橘寺に本当は、今日も寄ったのだ。それの一つは、受付の人と気持ちが通じたので、是非に「仏像観て歩き」滋賀編の寺々を読んで頂きたいと思って、インターネットでの「仏像観て歩き」の出し方の案内書をお渡ししたい。
 二つ目は、「イワイデカイ」である。云わずに居られようかこの事が。昨日観た如意輪観音に恋をしてしまい、もう一度会いたくなってしまったのだ。
 今日も裏門から入ったら、本堂に居た人が今日は裏門である。昨日来た事を知ていたようで、向こうからいう。そこで、昨日裏門の人はと聞くと何処か判らないらしい。
 裏門から入って直ぐに、昨日の人が、長靴履きで作業服である。びっくりされた様子でした。二日連続で来る妙な人とでも思ったのでしょう。
「ここの如意輪観音さんに、もう一度お会いしたくて今日も来ました」
と正直に答える。
「そうですか。それでは、私が案内して、差し上げましょう」
と、さっさと観音堂に入って行く。
 この如意輪観音の魅力を私なりに説明したところ、
「特別公開の、もう一つ特別公開です」
と言って、内陣の奥に連れて行かれ、安置してある脇の扉を開けてくれる。そこは如意輪観音さんを真横から、見上げる位置です。
 昨日、私には四本の腕しかないと思っていたが、やはり、六本の六臂である。仏像では腕の数を臂でいう。肩から垂れ下がる衣に隠れて、一本の腕が真直ぐに伸びて、地上を支えているのである。手の平の下に、肩からの布が手の平の下に敷いてある。
 更に近付いて、驚いた。立膝でない足を組んだ方の左足は、太ももまで現われており、
しかも、太い足をしていらっしゃるではないか。更に好きになってしまった。
 別の建物の収蔵庫へも案内されここでも詳しく説明を受ける。ここのご住職であったのだ。今日も新しい発見があり、
「仏像って好いですね」                                                                                                             今回の旅のもう一方の目的が「飛鳥の郷」である。大和三山の写真が、あまり無い様な気がして、意識して三山を撮った。「雷の丘」も「本薬師寺跡」も撮れた。
 今日の最後は橘寺である。これで三回目になる。すっかり、如意輪観音像の虜になってしまった。特別にあの隠れた第三手やひざを折った太腿を観てしまっては、最後のお別れのご挨拶をせねばなるまい。
 更にこの寺で忘れていたが、塔芯跡の礎石が橘の花形をしている事を写真に撮るのを忘れていた。好く思い出したものと改めて撮る。太い柱を真ん中に立て、その三方に細い柱を組む立て方である。ロケットの主エンジンと補助エンジンに似ている。
「馬が丸顔」
も巧く表現出来たでしょうか。
 松井群山先生と訪ねた頃には無かった。柿本人麻呂が妻を亡くして詠んだ長歌の歌碑と説明が、橘寺の西側にあった。その場所を橘寺のご住職に教えて頂いた。「飛鳥の郷」に追加して掲載しようと思います。このうれしい報告で今日はお終い。
 平成22年11月の遷都1300年「仏像観て歩き」で訪問した時には、次のように書いている。
 この寺に訪問しようという目的は、何といっても如意輪観音様にお目に掛からなければならない。

橘寺画像一覧その1
橘寺画像一覧その2
橘寺画像一覧その3
橘寺画像一覧その4
橘寺画像一覧その5
橘寺画像一覧その6
橘寺画像一覧その7
橘寺花華一覧その1
橘寺花華一覧その2
橘寺花華一覧その3


橘寺所蔵仏像
如意輪観音坐像 聖徳太子坐像 地蔵菩薩立像 日羅立像
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お礼とお詫びとお断り
当寺の記述を最後まで、ご覧頂きまして誠にありがとうございます。
厚く御礼申し上げます。下記の通り、お詫びとお断り申し上げます。

1.        仏像の写真を紹介出来なかった事です。勝手に掲載しませんでした。
2.        絵葉書、仏像解説書、国宝写真集等々で、有名な仏像については、ご覧になれる機会は多いと思います。
3.    それ等をご覧になりながら、もう一度ここにお越し下さい。 また、別の仏像の楽しみ方が出来ると思います。

4.        ここでは、国宝と重要文化財の指定を受けている仏像を紹介しております。
5.
   「国宝・重要文化財大全」彫刻 毎日新聞社 1998年より選定しました。
6.        像高も上記大全のものを小数点以下切捨てで、記載しました。寺や解説書等と多少違うかも知れません。
7.        掲載した「沿革」と「解説」は寺から頂いた資料や手持ちの解説書からのものを掲載しております。

8.        一番は、実際に寺に行ってご覧になることです。
9.    一つでも好きな仏像を決めて、訪ねると一層「仏像観て歩き」が楽しくなります。      以上