仏像名

びしゃもんてんりゅうぞう

浄楽寺
制作年代

重文
鎌倉時代

毘沙門天立像

様 式

文治五年(1189)

俗称又
は愛称

製作材質

木造、彩色
玉眼

樹 種

像 高

140cm

製作者

運慶作

安置場所

収蔵庫

開扉期間

解 説

 不動明王と同様に、江戸時代に施された彩色に覆われ、当時の姿が損なわれていたが、昭和51〜52年(197677)に行われた修理により取り除かれた。
 構造は、左右の二材を矧ぎ合わせ、さらに右の材を前後で矧いでいる。右手を振り上げ右膝を曲げて邪鬼の頭を踏み、裙の裾を左になびかせるなど、動きを抑えた不動明王とは一味違った姿を表している。
「日本の仏像 願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」より 講談社  2008年

 浄楽寺の阿弥陀三尊像の、向って左脇に安置する毘沙門天像である。ヒノキ材、寄木造玉眼の像で、造像法は、体躯の右側半身は一木、左側は前後に矧いで作っている。両腕両脚は別木、頭部も無論別木で、前後矧ぎ、さらに左右側面に別木を矧ぎつけている。
 彩色は、胎内木札により、寛政元年(1789)に塗り替えたものであることがわかる。持物、光背等は、後世のもの。本像は腰をひねり、右脚をあげ、右手を高く上げ、斜め側面を向いた動的な姿に作られている。
 四肢体躯、頭部の均整もよくとれているが、何といっても、後世の彩色に禍されて、製作当初の生命感を削がれている。本像の胎内には、修理銘札の他、文治五年、運慶が小仏師10人を従えて制作した由を伝える木札が納入されており、運慶壮年期の作であることが知られる。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年

私 の 想 い

 右手は肘を横に肩よりも高く上げ、手を真上に上げ、手首を内側に曲げて戟を握る。肘から下に袖口が垂れ下がる。
 左手は脇を締めて肘をV字に折り、手の平を横に出して多宝塔を載せる。両腕を開いて多宝塔を見せびらかす姿である。
 面相は憤怒の形相でもなく、落着いた表情である。足元の邪鬼は、両手を前に組み、右顔面を右足で踏み上げられ、折り畳んだ足と腰を左脚で踏み下されている。
 平成20年の訪問では、次のように書いている。

この毘沙門天さんは、一頭の邪鬼を踏まえている。邪鬼は右手の拳を顎に当てている。四つ這いになっている。足は寓蹄目の二つ爪ではない。頭を毘沙門天様の右足で踏まれている。毘沙門天様の左足で腰を踏まれている。極めて従順にへたり込む。
 左手は脇を締めて肘をVの字に折り、肩の高さで手の平を差し出し、多宝塔を載せている。中指と薬指を少し立て、落ちないようにしている。眼は遥か彼方を見ている眼である。
 平成23年1月に第四十一回「仏像観て歩き」は金沢文庫で開催された「特別展 運慶 中世密教と鎌倉幕府」を拝観しました。その時には、次のように書いている。
 古い写真を見ると全く別の仏像を観るようである。力強さや眼力が失せて、色彩だけで魅せようとした姿になってしまっている。そのことを思うと補修の難しさを思わずには居られない。
 仏像の魅力をこの年齢まで持続させてくれた仏像に、50年以上前の関西修学旅行で拝観した奈良・唐招提寺の如来形立像がある。その後、数年空けて、東京に遣って来た時に拝観しました。今にして思うと、おおかた定期健診を受けた時に補修が行われ、着色したのだろうと思います。その定期健診直後の拝観で赤味が勝った像に変身したのだろう。私の中にある如来形立像は、自然の白化現象で表面が白くなっていたのだろうと思います。
 ところが、赤味を帯びて着色がされていたのです。別の如来形立像とは言わないが、台無しと思って観ました。その後、何回も東京と奈良で拝観しました。未だに着色の痕跡が残り、最初の印象には遠いが、それでも補修から年月も経て、だいぶ近付いては来ている。
 補修も限度を超えると台無しにしてしまう。限度は当初のものを超えないことであり、後世の批判に耐えるものでなければならない。更に、当初の技術に学んで、技術を磨き、同じレベルで補修をする位の技術者でないといけない。
 この毘沙門天像の補修が完璧とは言えないが、前のものよりも好くなった程度に思います。今でも着色したことが明瞭に判り、私は違和感を覚える。古さを表すために古色を使った着色は止めてもらいたい。素地のままで、防腐、防虫の処置位で留めて置いて欲しいものである。

毘沙門天立像画像一覧その1
毘沙門天立像画像一覧その2
毘沙門天立像
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