仏像名 |
あいせんみょうおうざぞう |
神護寺 制作年代 |
重文 鎌倉時代 | |||
愛染明王坐像 | ||||||
様 式 |
文永十二年(1275) | |||||
俗称又 は愛称 |
|
製作材質 |
木造、切金玉眼、彩色 |
樹 種 |
| |
像 高 |
39cm |
製作者 |
康円作 |
安置場所 |
| |
|
開扉期間 |
| ||||
解 説 | ||||||
現在は東京国立博物館に寄託している。 湛慶の後継者である仏師康円の、数ある遺作中の最後の作。台座の銘に文永十二年(1275)三月十一日に造り始め、同二十一日に造り終わった事、巧匠法眼康円(時に六十九歳)の作である事が記されている。康円の作品としては誇張のない穏やかな造型であるが、彫法には堅さが感じられる。 頭、体の基本部は一材で前後に割り矧ぎし、膝の高さに底板を残して内刳りする。この底板を造り出す方式は、すでに運慶の浄楽寺阿弥陀をはじめ興福寺北円堂弥勒、康勝の教王護国寺弘法大師像などに見て来た。 納入品奉籠のための工夫であろう。玉眼嵌入。顔料の盛上げを交えた極彩色で、切金文様も配しており、精巧な金銅製装身具を着けている。 「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より この像の台座に銘文があり、それによると文永十二年(1275)三月十一日から二十一日まで掛かって造られたもので、作者は当時69歳の法眼康円である事が判る。細かい部分々々を取り上げて見ると、強い顔だち、太り気味の体躯、太い膝前の衣文線の流れなど、いかにも運慶の孫としての、しっかりした彫技を示してはいるが、像が小さいせいもあって、全体に技巧に走り、細技におぼれたという感がないでもない。 保存が大変よく、台座、光背なども当初のものが残され、銅製の透彫りの胸飾りや腕釧もそのまま伝えられている。 その精巧な出来映えにも、鎌倉彫刻後半期の工芸的傾向が象徴されているようである。この像は康円の最晩年に属する作品であり、文覚・明恵と長い時間を要して嘉禄二年(1226)に供養の行われた同寺の復興造営の一環として造られたものであろうか。 「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」より 台座に記された銘文により、文永十二年(1275)法眼康円69歳の作と知られる。多臂像 を破綻なくまとめているが、運慶・湛慶の力動感は失われている。檜材の割り矧ぎ造り。 本体の彩色、盛り上げ文様、臂釧(ヒセン)・胸飾り等の装飾金具はもとより、光背、台座も保存が良い。 東京国立博物館 平常陳列 2011年度冬期より | ||||||
私
の 想 い | ||||||
三目六臂で頭上に獅子頭を戴いて、目の玉を真ん中に寄せてにらむ。 平成24年8月に東京国立博物館で拝観しました。「運慶周辺と康円の仏像」という特別陳列の企画で出展されていました。 愛染明王像というのは、愛玩的な要素の強い仏像であり、古くは東大寺の重源上人や西大寺の興正菩薩叡尊なども、身近に愛染明王像を置いて信仰していた。西大寺の愛染明王像は、京都・高山寺の僧明恵上人が叡尊に仏師善円を紹介し、善円が叡尊のために最初に造った像である。これ以後、善円は叡尊と組んで造仏をして行く。 高山寺の明恵上人は、康円の伯父である湛慶に善妙神像と白光神像を造らせており、過ぎては後に、甥の康円が愛染明王像を造ろうというのも、時代の変遷と言うものである。 西大寺像には、愛染明王像が喰い散らかしたと思われる貝の残渣が、台座の下に散見するが、この東京国立博物館像の台座の下には見当たらない。 康円作の東方天眷属像と南方天眷属像には、戟の換わりに高箒を持つように代役の務めと定めたが、無駄なようであった。この愛染明王像は、お腹の一杯な人で在ったようだ。残念。 善円は1197年生まれ、康円は1206年位の生まれと言うことだと、それ程の歳の差もないし、近くで仕事をしていたことを考えると、お互いを知っていたと考えた方が好い。 西大寺像は1247年善円が50歳の作。東京国立博物館像は1275年康円が69歳の作。25年位の差はあるが、私の眼には両者の技量の差は、多いにあると思う。技量の差は在るにしても、鎌倉時代の末になると、仏像の注文も少なくなって、仏像に対する時代的な背景が乏しくなる。 立派な祖父運慶や伯父湛慶や親父康運(肥後定慶)の時代よりも、段々活き難い時代に変化して来た。それでも最後の頑張りをして、遺そうとしているのだ。それがこの愛染明王坐像なのである。 |
|
|
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
|
愛染明王の考察 |