平安時代初期に造顕された像高170センチ、一木造の堂々たるもので、高く秀でた眉、うねってのびる瞼の下の鋭い目、への字に曲げた突出た唇、大きな螺髪という森厳なご面相で、しかも下半身にまとう布の襞が、太腿の豊かな量感を強調して流れている。
当時の天然痘の流行、相次ぐ貴族間の権力抗争、天変地異、飢餓という数々の社会不安を抱えていた日本の苦悩を、すべてここに凝集したような迫力のある表現となっている。
これからはすべて奈良仏教の表現である天平様式からは全く性格を異にした、密教の精神をもった森厳神秘的な表現様式と言える。この薬師如来像は彫刻技術の優秀さだけでなく精神性の表現を不可欠とする、宗教彫刻に独自の境地を開いた類まれなる名作で、唇に残る朱の色も鮮やかに、印象的な霊像である。
「高雄山 神護寺」より
京都高雄、神護寺の本尊として名高い。この薬師如来の像は、同寺金堂の内陣厨子の中に安置してある。神護寺の創立は、和気清麻呂により延暦年間、河内国に神願寺と称する一寺を建てた事に始まる。
しかし、この地は道場としては適当ではなかったため、清麻呂の子真綱の上表によって、天長元年(824)、山城国高雄寺の地に移り、名も神護寺と呼ぶようになった。
この薬師如来像は、神願寺の旧本尊と考えられるもので、造立年代は延暦十二年(793)、を下らぬ作と考えられている。像は両手先を除く他は、一本の木から刻み出された、いわゆる一木彫で、量感に富み、貞観時代に流行した彫法である。
像は全く彩色をせず、素木のままにして、木地の美しさを出しているのは、こうした像が、渡来の檀像との関係を考えしめる。衣文は、先の唐招提寺講堂の頭部の無い如来形立像に近い。螺髪は植付けで、両手首より先と薬壷、台座は後補である。
「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より
神護寺創立の由来は、奈良時代の末、称徳天皇が道鏡に譲位しようと考え、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣してその正否を訪ねさせた事に始まる。その時、八幡神は天皇の譲位を思い留まらせると共に、清麻呂に寺を建てて欲しいと願われた。
清麻呂は延暦年間(782〜806)、になって、神の願いの通り、和気氏の私寺を造営して神願寺と号した。後、この寺の地が汚れているので、現在地に移し、神護寺と称する様になったのである。
奈良時代までは、仏教は都や地方都市を飾る文化として、急速に大陸から吸収されたが、宗教として信仰されるまで深く人の心に根を下ろしているとは言えなかった。
そして一方では、依然として、神のたたりを恐れ、心身の汚れを清めて神に奉仕する事によって、神の怒りを和らげると共に、神の授ける福徳も頂こうとする日本固有の信仰が根強く続いていた。
この薬師如来像は、神願寺の本尊として造られ、この様な時代に、日本人の救いの仏として、初めて現れたのである。当時の人々は何よりも御霊のたたりを恐れた。
この頃は皇位が不安定な時代であった為、淳仁天皇、不破内親王、井上内親王とその子皇太子他戸王、氷上川継、皇太子早良親王、同伊予親王などが天皇を呪い殺そうとした罪により、相次いで残酷な処刑を受けて死んでいった。
世間ではこれが無実の罰だったという噂が流れ、人々の同情を集めた。折から桓武天皇の病気や災害が続いたので、これは処刑された人々の怒れる霊魂、すなわち御霊のたたりによるものと信じられたのである。
この時にあたり、清麻呂は国家の鎮護と共に和気氏の安泰と繁栄とを、この像に向かってひたすら祈った事であろう。
我々はこの像を拝する時、無気味な神秘感に打たれる。後世の阿弥陀信仰の様に、迷える凡夫を極楽に導いてくれる親しみ易い仏ではなく、恐ろしさの余り、厨子の扉を閉じて膝まずきたくなる様な仏である。
この恐るべき仏像こそ、御霊のたたりを排除出来る力を持っていると信じられたのである。薬師如来の信仰には、神殿の奥深く静まって、人にその姿を表わさない神の信仰に通じるものがあった。
日本人はこの様に固有信仰を基にした形において、初めて、仏教を救いの教えとして理解したのである。平安前期の薬師如来像の多くが、白木のままで金箔や彩色をつけていないのも、清浄を尊ぶ神の、み心に沿うものと考えられたからであろう。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
延暦十二年(793)、頃に制作されたと考えられる神護寺の本尊薬師如来像である。両手は後補であるが、頭部から足まで一木から作られ、目や唇や髪の毛以外には彩色をせぬ素木の彫像である。
この像の作風は、天平時代の優美平明な彫刻に比べると大変な違いがある。体躯はボリュームに満ち、顔付きは森厳な、また呪術的な表情を持っている。両股を隆起させ、そこに平行状の衣文を彫る事は、天平後半に入って来た、唐代様式を反映するものと思われるが、至るところにノミの痕を残した荒々しい刀法は、天平後半から山間で修行していた行者達の礼拝像の系統に属するものと考えられる。こうした禁欲的な厳粛な作風の仏像は人里離れた山寺に多いためである。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
平安時代初期(8世紀末〜9世紀前半)のカヤの一木造りの仏像には個性派が多い。神護寺の本尊、薬師如来立像はその代表格だ。螺髪に覆われた頭部はうずたかく盛り上がり、鋭い目は見る者を威圧する。ずんぐりした体形で、腰から下が太くがっしりしている。優しさより呪術的な神秘性を感じさせる。
薬師如来は金堂内陣の厨子に安置されている。外陣から少し遠く、単眼鏡が役に立つ。デフォルメのような、部分を誇張した表現が目立つ。両手ともひじから先を前に突き出し、右手は「恐れなくてよい」という意味の背無畏印をつくり、左手に薬壷を持つ。どちらの手も太くたくましい。救いの手を差し伸べるといった優しい感じではない。両腕から垂れる衣のひだが、波のうねりのように揺らいでいる。これも誇張的だが、リズム感がある。
正面の衣文線は腹部では斜めのカーブで、股間でU字形を描いて垂下する。太ももで大きな楕円を描き、中は平滑にする。彩色を抑え、素木の美しさを出す。こうした特徴は唐招提寺・新宝蔵の薬師如来と共通し、一木造りの同じ系譜にあることがわかる。
神護寺は京都の西北、愛宕山系高雄山の中腹にあり、紅葉の名所として知られる。前身の高雄山寺は山林修行の道場として建立された。奈良時代末、道鏡事件や平安遷都の際に活躍した官人、和気清麻呂が創建した神願寺が824年に移って両寺が合併し、神護寺となった。薬師如来は当初は神護寺の本尊だったとする説が有力だが、高雄山寺本尊説もあって、決着していない。
奈良末期から平安初期は政治が不安定だった。桓武天皇の弟早良親王が皇太子を廃され憤死(785年)するなど政治事件が多発した。恨みを抱いて死んだ敗者の怨霊は祟りを為すと恐れられ、怨霊を鎮める力が仏教に求められた。一方で災厄を防ぐ強い力をもつと、高雄山寺のような山林修行僧が尊ばれた。神護寺の薬師如来の、拝する人に畏怖の念を起こさせる魁偉な容貌はこうした社会的背景があって生まれたのだろう。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2013.7.20
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