仏像名

ふりがな ほうこうこくうぞうぼさつざぞう

神護寺
制作年代

国宝
平安時代

宝光虚空蔵菩薩坐像

様 式

俗称又は愛称

製作材質

木造
彩色

樹 種

像 高

97cm

製作者

安置場所

多宝塔

開扉期間

解 説

数ある神護寺の寺宝の中でも本尊の薬師如来像と並ぶ名宝が、多宝塔内の五大虚空蔵菩薩像である。向かって右から1番目が宝光(摩尼)虚空蔵菩薩(緑色)で、薄い乾漆の上に胡粉彩色した1m前後の坐像の居並ぶ姿は誠に麗しい。
「高雄山 神護寺」より

 神護寺がまだ高雄山寺と言っていた頃、唐から帰った最澄が延暦二十四年(805)、にやって来て、初めて灌頂の秘法を行ない、次いで唐から帰った空海が大同四年(809)、からしばらくの間ここに住み、弘仁三年(812)、に最澄や和気真綱たち百九十余人に灌頂を授けた事があり、早くも密教の道場として、人々の注目を集める様になっていた。
 神護寺が真言宗の道場として整備されたのは、空海の弟子真済の代で、この五大虚空蔵菩薩像も、真済が国家を鎮護するため、承知、嘉詳の頃(83451)、に造り、五重塔に安置した仏像である。
 当時講堂の密教諸像や安祥寺の五智如来像の様に、機能の分化に応じて五体の虚空蔵菩薩像が生まれた。五体は肉身の色と右手の持物で区別される。
 真言宗の寺院では、空海の弟子が中心になって密教様と呼ばれる仏像の様式を確立した。この神護寺の五大虚空蔵菩薩像をはじめ、大阪の観心寺の如意輪観音像、安祥寺の五智如来像などの諸像がそれである。それは空海が唐の密教像を再現しようとして未成熟の段階で終ってしまったのを完成させたのである。
 東寺の五大明王像に見られる奇妙な肉体の表現は、元来インドの彫像に表われた官能的な肉体の表現に源を持っている。空海はそれを目撃したのであろうが、空海が持ち帰った図像と空海の説明だけでは、日本の仏師達に密教像がどのようなものか、良く理解させる事が出来なかった。
 東寺像のすぐ後に、造られた神護寺、観心寺、安祥寺の諸像の場合は、空海すでに亡く、空海の弟子達は密教像を、どのように造るかについて、自由な立場に立つ事になった。その結果出来上がった仏像には、東寺像に表われた未成熟な点が除かれて、まとまりが良くなると同時に、日本的な穏やかさが現れて来た。
 容貌は優しく、衣の皺の彫りも浅くなだらかである。しかし、女性を思わせる様な、柔らかい肉体は豊かに肉付けされて、この点にインド的な肉体表現の名残りともいうべき特色が、残されている。
 この群像は鎮護国家のために造られたのであるが、その豊満な美しさは、一人一人の心の内に、語りかけて来る不思議な魅力を持っている。王朝時代を背景に造られた密教像は、やがて加持祈祷の本尊として平安貴族の信仰を受ける様になるのである。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より

私 の 想 い

右手は脇を少し開けて、肘を張り手の平を上にして胸の前で宝珠を乗せている。左手は、三鈷杵を頭に2個着けた斧を垂直に立てて持つ。
 握り方は虚空蔵さんによって微妙に違う。人差指の跳ね上げ方が違う。二段蓮弁の蓮華台に吉祥座に座る。
 薄青色を塗ってあり、顔は上記四像よりも幅広い顔をしている。

宝光虚空蔵菩薩坐像画像一覧その1
宝光虚空蔵菩薩坐像画像一覧その2
宝光虚空蔵菩薩坐像
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神護寺画像一覧その1 神護寺の写真が楽しめます。
神護寺画像一覧その2 神護寺の写真が楽しめます。
神護寺所蔵仏像
薬師如来立像

薬師如来坐像

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