仏像名

ふりがな   ぜんみょうしんりゅうぞう

高山寺
制作年代

    重文
鎌倉時代

善妙神立像

様 式

嘉禄元年(1225)

俗称又は愛称

製作材質

木造、彩色
玉眼

樹 種

像 高

31cm

製作者

安置場所

開扉期間

解 説

高山寺は平安末期に、明恵上人が中興してから、真言と華厳とを兼ねる寺となった。従って、この寺には真言と華厳の双方に関係する遺品が伝わっているが、この善妙神像は華厳宗関係の遺品で、次のような悲恋物語のヒロインの彫像である。
 新羅の僧義湘が唐に留学した時の事、ある日義湘が托鉢に出て、一軒の家の門に立って食を乞うと、音に聞こえた美少女善妙が出て来た。彼女は義湘と応対する内に、義湘の美貌に魅かれてしまった。
 善妙は義湘に、切ない愛情を告白したが、義湘の道心は揺るがず、やがて留学を終えて新羅に帰る時が来た。
 善妙は私財を投じて衣や鉢などの道具を整え、最後にもう一度義湘にまみえて、これらの品々を贈ろうと考えた。ところが、善妙が港に行って見ると、義湘を乗せた船は、すでに出帆して遥か沖合いにあった。
 善妙は動転したが、すぐ十万一切の諸仏に祈りを込め、贈物を納めて箱を海に投げ入れた。すると、箱は水の上をまっしぐらに走って舟に躍り上がった。
 これを見た善妙は力づいて大願を起し、来世を待たず、唯今より、義湘の求道を、助ける守護神となろうと誓った。
 この大願により、善妙はたちまち龍となり、義湘の船を守って無事に新羅に送り届け、それから後も、常に義湘に従い、大神通力を持って守護し続けたという。
 この像は衣や鉢などを納めた箱を捧持して、まさに海にこれを投じようとする姿を写したもの、この像を造らせたのは明恵上人である。
 上人はかつて夢で善妙と語り合い、自分を義湘になぞらえた事があった。この像の美しい姿の中に、一生不犯の聖僧として通した明恵の、愛情に対する苦悩が秘められているようである。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より

 高山寺鎮守社の神像。嘉禄元年(1225)、明恵上人の意志によって、白光神は禅法擁護の誓いある故に、善妙神は華厳擁護の誓いある故に、それぞれ中央と左方の社に勧誘され、両神像が安置された。いずれも明恵上人がかねて特別の関心を抱いていた神である。
 白光神は天竺雪山の神であるに相応しく、全身純白の男性に表わされる。一方の善妙神は、もと唐国の女人で、新羅から入唐した華厳宗の祖師義湘を恋い慕い、帰国する義湘のあとを龍身となって追い、彼の宗教活動を助けたという(本寺に蔵する「華厳縁起」にこの説話が描かれている)。
 美しい女神の姿である。共に小像ながら癖のない彫法で気品のある穏やかな姿に表現している。
 その作風や、平岡善妙寺鎮守の善妙神を造った記録のあること、明恵上人との関係等から、確証はないが、仏師湛慶の作と推定される。寄木造、玉眼嵌入。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より

 明恵上人が高山寺の鎮守として、嘉禄元年(1225)、に勧請したと伝える女神像。新羅の華厳宗の祖師。義湘が唐に学び、帰国の時あとを追って龍に変じ、護法神となったという善妙の伝説は高山寺の「華厳縁起絵巻」にも詳しい。
 両手に金色の蓋の宝篋(ほうきゅう)をささげ、白肌色の肉身、緑や赤、白の鮮やかな地に文様を施した唐衣をまとい、目尻の少し上った朱唇の美女の相貌に作られる。高山寺と関係の深い慶派の仏師の作と考えられる。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年」より

私 の 想 い

重箱を胸の前に捧げ持つ女神である。高僧を影で支えた女性をモデルにしているだけに優しい佇まいのお姿である。また、明恵上人が恋焦がれて独身を通し、女難を避けるために耳を切り落としたというだけに、色白の小さいながらも品のある美人像である。 しとやかに重箱を持って、高僧の義湘さんのところに食事を運ぶのだろうか。それとも神様へのお供え物なのだろうか。
「義湘さん、今日の食事は大変上手に出来ましたわ」
とか何とか、いったかも知れない。

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