仏像名

ふりがな じごくてんりゅうぞう

当麻寺
制作年代

    重文
飛鳥時代

持国天立像

様 式

俗称又は愛称

製作材質

脱活乾漆造
彩色

樹 種

像 高

219cm

製作者

安置場所

 金堂

開扉期間

解 説

乾漆で作られた四天王像である。乾漆という技法は、粘土で像の大体の形を作り、その上に麻布を漆で塗り固め、それを数回繰返し、充分乾燥した後、像を割って内部の土を取除き、木枠を入れて像が歪まぬ様にする。
 最後に、表面に彩色を施して仕上げをする技法である。塑造と乾漆とは次の時代の天平時代に本格的流行を見た。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より

 金堂土壇の四隅に、配される四天王中の一躯で、頬から顎にかけて表わされた雄壮な髭が、その偉丈夫のさまを際立たせる。
 この髭は、麻布ないし獣皮のようなものを一本ずつコヨリ
(木撚り)状にした芯に木屎を盛って植え付ける丁寧な造りで、本像の表面仕上げに関わる技法的な特色を端的に示している。
 本体は、塑土の原形に麻布を漆で張り重ねて乾かす脱活乾漆造りからなる。ただし、かつて大破による全面的な補修を経たらしく、両袖や腰以下の部分は、厳密にどこが当初の造形か現状では判断が難しい。
 また明治期の美術院による修理の際、胴部内側に沿って桶状に組み込まれた桐材の存在が注目されたが、これが製作当初の仕事か、後の補強かはなお疑問である。
 更に両脚膝下の部分がやはり、桐材の木製で当初との見方もあるが、同じく問題である。これらはその木質の検査も含めて、より細かな検討の余地があるだろう。
 このような現状を踏まえて、改めて全体を眺めると、本像で際立つのはその像容の異国性であろう。
 大きな襟を立て、肩で締める形はもとより、胸甲・肩甲・背甲のそれぞれを独立的に表わし、かつ、その下方の胴部両脇に当てた腰甲と、それを締める幅広の皮状玉帯、さらには最近しばしば言及される未だ日本化されない前楯など、その服制は成都万仏寺出土の神将像や敦煌莫高窟第220窟
(貞観十四年642)北壁薬師浄土図中の神将像など、中国六世紀後半から七世紀前半にかけての神将形像のそれを正しく継承する。
 そして冒頭で触れた髭面の相貌である。鼻も高く立派で、太い眉を吊り上げた厳しい忿怒の顔立ちはもとより、上瞼をうねらせる両目も飛鳥前期の形から完全に脱却している。
 本像の年代を考える上でまず、勘案すべきは、天武朝に遡るといわれる本寺の草創、及び金堂の塑造弥勒仏との関係である。
 けれども、現在の金堂土壇は当初から四天王を配したとするには手狭で、また塑造の本尊に対し、下位の四天王がより高級な乾漆造りというのも疑問である。
 結局、後の移安と看做されるが鎌倉時代にはすでにそれが金堂に祀られていた事が明らかである。
 一方、他の作例との比較では、飛鳥前期の法隆寺金堂四天王や、同玉虫厨子扉絵の神将像、同じく飛鳥後期の法隆寺・橘夫人厨子扉絵の神将像、更には法隆寺金堂壁画の九号壁中の神将像などが挙げられる。
 このうち最も近いのは法隆寺金堂壁画であるが、中国・敦煌莫高窟第220窟のそれとの近接も著しい。これらを総合すると年代は、やはり本寺創建の天武朝から持統朝に架けてと見るのが穏当であろう。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より

私 の 想 い

 右手は肘を曲げて右腰前で剣を握る。剣先を上に真直ぐに立てて握る。左手は脇を締めて、肘を直角に折って、胸の前で三鈷杵を手の平を上にして握る。
 邪鬼は足を抱え込んで両肩に持国天の足で踏まれている。
持国天立像画像一覧その1
持国天立像画像一覧その2
持国天立像
当麻寺に戻る
当麻寺画像一覧その1 当麻寺の写真が楽しめます。
当麻寺画像一覧その2 当麻寺の写真が楽しめます。
当麻寺花華一覧その1 当麻寺の花々が楽しめます。
当麻寺花華一覧その2 当麻寺の花々が楽しめます。
当麻寺花華一覧その3 当麻寺の花々が楽しめます。
当麻寺に戻る
所蔵仏像
弥勒仏坐像 持国天立像 増長天立像 広目天立像 多聞天立像
阿弥陀如来坐像 阿弥陀如来坐像2 地蔵菩薩立像 妙幢菩薩立像 紅はり弥陀坐像
十一面観音立像 吉祥天立像


四天王の考察