仏像名

あみだにょらいざぞう

願成就院
制作年代

国宝
鎌倉時代

阿弥陀如来坐像

様 式

文治二年(1186

俗称又
は愛称

製作材質

木造、
漆箔、

樹 種

像 高

142cm

製作者

運慶作

安置場所

収蔵庫

開扉期間

解 説

 運慶が鎌倉新様式を確立した金字塔ともいえる像。圧倒的な量感をもつ力強い体躯、写実的な衣の襞などが、彫りが浅く穏やかな平安後期の定朝様との完全な決別を示す。 目は、当初は玉眼を入れていたことが判っている。
「日本の仏像 願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」より 講談社 2008年

 胸前で結ぶ説法印は平安時代前期の像に多い印相。重厚な体質とともに、運慶が京都・広隆寺講堂の阿弥陀如来像のような古典彫刻に学んだことを示すとされる。
 指先を失っているが、豊かで動きのある造形には運慶の持ち味が発揮されている。
「日本の仏像 願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」より 講談社 2008年

 両手を胸前にあげて説法印を結び、結跏趺坐するこの阿弥陀如来像は、神奈川県浄楽寺の阿弥陀如来像との様式的類似、願成就院に伝わる文治二年(1186)の銘札、及び「吾妻鏡」の記事等から、運慶が文治二年に北条時政の発願により制作した尊像と考えられる。
 寄木造、彫眼、漆箔の像で、頭部体躯ともに見事な体格をした彫像で、面相は丸く、たくましい。
 頭頂には巻毛をかたどった螺髪が植付けられているが、この像はある時代に前方にたおれたらしく、前面の螺髪はおち、説法印を結ぶ両手の指先も痛たましく折れ、欠失している。面相は両頬がふくれ、切れ長の眼は、瞑想にふけるようにわずかに見開き、口は小さい。頬は太く短い。体躯は肉付きよく、それでいてバランスを失わず、膝は厚く、頼もしい男性的な姿を巧みに表現している。
 この体躯をつつむ衲衣には、複雑に乱れた衣文が、自然に深く刻み込まれている。ある衣褶は弧線を描き、またあるものは、頂の尖った波形をなし、またあるものは、交叉して松葉のような形になっている。
 こうした衣文表現が、顔や胸の肉身部と衲衣との質感の違いを有効に出ている。運慶の壮年期の作風を伝える貴重な遺品である。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年

 願成就院がある伊豆半島北部の伊豆の国市は後に鎌倉幕府の執権となる北条氏の地元だった。平治の乱で平家に敗れた源頼朝はこの地に20年配流され、1180年に挙兵した。9年後、頼朝が奥州に出兵する際、妻政子の父の北条時政が戦勝祈願で建てたのが願成就院だ。
 時政を施主に運慶が1186年に造った本尊の阿弥陀如来坐像など5体が伝わる。鎌倉幕府の有力御家人が運慶に依頼した最初の仏像だった。
 本堂に当たる大御堂は、今は鉄筋コンクリート。扉を開けると、正面に運慶作の5体が並ぶ。思わず息をのんだ。阿弥陀如来は像高142cm。ほおをたっぷり膨らませた丸い顔、厚い胸は堂々として重量感に満ち、両手のひじを曲げて胸の前で説法印を結ぶ姿は力強く、実在感がある。衣のひだが奔放に、流れるように深く刻まれ、30代と推定される壮年運慶の卓抜な技量が見てとれる。完璧な芸術作品を見るうで、圧倒された。
 本像に向かって、左に不動明王と脇侍の二童子、右に毘沙門天が並ぶ。写実的で今にも動き出しそうな勢いがある。この4体の目は水晶をはめた玉眼で、大きく見開き、輝いている。対照的に本尊は彫眼で、伏し目がちに閉じて、瞑想しているように見える。当初は玉眼だったが、後世の修理で直されたという。
 5体は今日では「鎌倉彫刻様式の完成を告げる」と高い評価が定まっている。だが、学界は長く運慶作と認めなかった。運慶の他の作品と比べ作風が「都らしからぬ様子」とされ、この見方が学界で通説化していたのだ。鎌倉時代の基本史料「吾妻鏡」には願成就院の本尊は阿弥陀三尊で不動明王、毘沙門天もまつられている旨が記され、江戸時代の修理の時に不動、毘沙門両像内から取り出した木の銘札には運慶と時政の名前、造像年が書かれていた。運慶作を裏付ける、こうした史料が軽視されていた。
 運慶の真作と分かったのは1995年に神奈川県横須賀市の浄楽寺の阿弥陀三尊などが調査され、運慶作を示す銘札が見つかってからである。次週に浄楽寺を取り上げる。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2014.02.08.

私 の 想 い

 胸の前で指先を上に向けた説法印という印相を結んでいる。指先が両手とも失われているので、どの指が親指と着いていたのか判らない。「日本の仏像」の解説絵では、中指になっている。上記の解説に出ている、京都・広隆寺講堂の阿弥陀様は、薬指である。想像を巡らす余地を残してくれる像である。指先を大きく写した写真では、薬指が深く内側に曲がっているので薬指か。完全に欠落している人差指の可能性もある。
 左足の裏が右足のふくらはぎのうえに、ニューと出ている。左手の垂れ下がった袖口の下にわずかに右足の親指が顔を出す。
 丸顔な彫眼で伏し目勝ちな眼である。伏し目の仏像もこちらに語り掛けて来るものがある。まさにこの阿弥陀様は、その代表である。
 平成20年の訪問では、次のように書いている。
両手の指先が欠けている。オデコの螺髪もいくつか欠けてない。火事で運び出す時に、前に倒して欠いてしまったのだという。
 その結果、指先で九品の形を確認出来ないが、寺では中品中生だという。指先を上に向けた形を説法印というのだそうだが、説法を解く時の指先を表わしているのだろう。それほど多い九品印ではない。
 どうして運慶は、東国で初めての仕事で、この九品印を採用したのだろうか。次の浄楽寺では一般的な上品下生の印相を採用している。今までにないものを採用することで、新たな気持ちで自分も変ろうと言う気持ちと、東国武士に強力な湧き上がるメッセージを与えたかったのだろう。その気持ちは充分に伝わり、東国武士のその後の活躍に生きている。

阿弥陀如来坐像画像一覧その1
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