文治二年(1186)に造像を始めたことが知られる運慶作の願成就院諸像は、その10年前に造られた彼の青年期の作である奈良・円成寺の大日如来像から、大きな変化を遂げている。
平安後期に流行した定朝様の穏やかさを、まだかすかに留める円成寺像と比べて、阿弥陀如来像は厚み・張り・たくましさが格段に増し、同様に、不動明王・毘沙門天像も、弾力性に富んだ引き締まった体躯をみせる。
願成就院の諸像には、力強さとスケールの大きな造形力が加わり、運慶らしい持ち味が十二分に発揮されている。
願成就院の造像は、今知られる限りにおいて、運慶と東国武士とが関わった一番早い事績である。願主の北条時政は、源頼朝の義父にあたり、頼朝没後は初代執権として幕府を動かした。「吾妻鏡」では、この時政を開基とする願成就院は、文治五年(1189)に奥州征伐の戦勝祈願のために建立されたと伝える。
建立の目的についてはそのままには受け取れないが、おそらく北条氏の本拠地に建てられた、いわばその氏寺で、阿弥陀如来像はその本尊であったとみられる。
「日本の仏像 願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」より 講談社 2008年
当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅又は韮山駅より徒歩15分程の守山を背にしたところにある。
寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(729)五月十五日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の事蹟を伝える「吾妻鏡」の記録から、文治五年(1189)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振るった北条氏の寺として、二代執権北条義時公・三代執権北条泰時公の三代にわたり、約半世紀の歳月を費やして、次々に堂塔が建立され繁栄を極めた。
その伽藍構成は、奥州平泉に藤原三代の偉業として伝えられる。中尊寺・毛越寺・無量光院三寺院の中の毛越寺を模したもので、山門を入ると大きな池があり、その池の中島に架けられた橋を渡って、参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。
しかし、こうした繁栄もやがて十五世紀末には兵火にみまわれ、次第に衰運に向った。室町時代延徳三年(1491)二代堀越公方・足利茶々丸公が北条早雲に攻められた際、多くの堂塔が灰燼に帰し、さらに時移り、戦国時代の末、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの折、韮山城攻撃の際、再び兵火に見舞われ、ますます寺運は衰えた。
江戸時代宝暦三年(1753)寺の荒廃を嘆いた北条美濃守氏貞が仏像等の修理を行い復興に務めた。現在の本堂は寛政元年(1785)に仮本堂として建立されたものである。
昭和三十年以降、東京浅草人を中心として、当山の貴重な文化財の護持顕彰を目的に浅山講・大倉願成講・天山講・京山講などの講社が相次いで組織され、その浄業として大御堂が再建され、再び今日の興隆をみるに至った。
今日当山に伝わる大御堂本尊阿弥陀如来像・毘沙門天像・不動三尊像は国の重要文化財に指定され、特に毘沙門天像・不動三尊像は、重要文化財に指定されている胎内造像銘札により、日本彫刻史上最大の仏像作家の一人であり、十二世紀から十三世紀初頭にかけて鎌倉時代の新様式を樹立した運慶の壮年期三十五才頃の真作であり、これら諸像が運慶二十代の作として名高い、奈良・円成寺の大日如来像と、五十代に達しての作で運慶最大の傑作、奈良・東大寺南大門の金剛力士像の間の空白期を埋めるもので、運慶様式の成立を考える上で、貴重この上ない仏像として、日本彫刻史上大きな意義を有するものである。
又、現在の願成就院境内を中心に裏山を含めた一帯は、毛越寺の他、京都・浄瑠璃寺など全国で七ヶ所しかない、藤原時代特有の寺院様式の貴重な遺構として、国の史跡に指定されている。
「天守君山 願成就院」縁起より 2008年
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