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仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 東北編

名  称

ふりがな

てんだいじ

天台寺

俗称又は愛称

岩手県二戸市浄法寺町大字御山字御山久保33-1

最寄駅

JR東北新幹線
二戸駅

開  祖

沿  革

「行基伝説」
 天台寺は奈良時代に聖武天皇の命を受けて行基が開山したと伝えられています。行基(668749)は奈良の僧で、その徳を慕って集まった人々を率いて道を直したり、橋を架けたり、溜池を築くなど多くの社会事業を行い、聖武天皇の東大寺大仏建立に協力し、我が国ではじめて大僧正に任ぜられた高僧です。史実としては行基がこの地を訪れたとは考えられませんが、この伝説は行基の流れをくむものが早くからこの地で宗教活動を行っていたことを示すものかも知れません。
 岩手県内では奈良時代にさかのぼるお寺の跡はまだ見つかっていませんが、桂の根元にこんこんと湧く清水が古くから霊地として信仰をあつめていたものと考えられます。
「みちのくの霊山 桂泉観音 天台寺」より 岩手県立博物館 昭和62年3月

「杉伐採事件と復興運動」
 明治維新によって多くの堂社を失ったものの、戦前までは「御山の観音さま」として近郷近在の崇敬をあつめ、祭日にはかなりのにぎわいを見せていました。しかし、敗戦による混乱と社会情勢の激変から、戦後はお参りする人の数も激減し、さびれて来ました。
 昭和28年(1953)、そのような天台寺に追い討ちをかけるように起ったのが杉伐採事件でした。約3年にわたって天台寺の杉の大木1,166本が切り倒された事件で、霊山にふさわしい森厳さは一挙に奪われてしまいました。
 この事件は、最高責任者である住職が兼務住職で天台寺に常住していなかったため、地元の意向が反映できずに伐採が進められたものでした。以前のように合議制で一山を維持・保護する体制があれば防ぐことが出来たかも知れません。
 しかし、この不幸な事件は天台寺復興運動のきっかけになりました。天台寺保存会、天台寺復興開発期成同盟会が結成され、また、国指定史跡をめざした境内の発掘調査が継続して実施されるなど、天台寺に寄せられる関心は着実に強くなってきています。
「みちのくの霊山 桂泉観音 天台寺」より 岩手県立博物館 昭和62年3月

 開山は行基と伝わる古刹。カツラの木の根元に涌く雲泉「桂清水」が信仰の原点で、平安期のカツラ材の一木造の仏像と、室町期の舞楽面などが多数伝わる。
「日本の仏像 勝常寺薬師三尊とみちのくの仏」より 講談社 2008年

「天台寺の歴史」
 天台寺の登り口にカツラの大木があり、その根元から清水が湧いていて、「桂清水」と呼ばれてきました。太古から、この清水は霊水として知られ、「桂清水」はこの地方の霊木・霊水信仰の地だったと思われます。
 天台寺は奈良時代の神亀五年(728)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山したと伝えられています。八つの峰、八つの谷からなるこの山を「八葉山」と名付け、山中のカツラの大木を刻んで本尊聖観音菩薩としたと云われます。天台寺は北奥の観音霊場としてその時々の人々から崇敬されてきました。山上の本堂(観音堂)は、江戸時代万治元年(1658)盛岡藩主南部重直が再興したもので、典型的な密教様式の仏堂であり、国重要文化財に指定されています。藩主の祈願所として、また、糠部三十三所、奥州三十三所の詣り納めの観音霊場として庶民からも深い信仰を集めて来ました。
「八葉山 天台寺」拝観切符より 2012年

私 の 想 い

 昭和40年代の5月の連休を使って東北地方の仏像を拝観したのである。夜行寝台車で朝早く駅に着いた。駅名は「上福岡」か「福岡」は忘れたが、東北地方で「福岡」は珍しく思えて、乗り過ごさないように気を付けていた。現在、調べるとその駅名は無くなっている。多分「二戸駅」ではないかと思う。
 駅前からタクシーで寺まで行ったのである。人里離れた山の中にあったような気がするが、うる覚えである。しかし、丁度りんごの花が真っ盛りであったのはよく覚えている。
当時の手帳を見て判ったのは、
天台寺  北福岡駅  ナタ彫 十一面、吉祥天

成島毘沙門天 花巻駅  兜跋毘沙門

立花毘沙門  北上駅  毘沙門天
と、書いてある。
 夜行列車に揺られて着いた岩手県の北方、北福岡では桜が盛りを過ぎて花吹雪の最中である。改めて、桜前線を思い知らされる。これからりんごの花が咲き、春が本格的にやって来るのだろう。
 駅から不案内であるので、まず、タクシーにて天台寺に向う。
タクシーの運転手曰く
「むかしはこの辺りも大雪が降ったのだが、最近は降らなくなった。降ってもブルトーザーで除雪してしまうので、昔みたいなこともなくなった」
と、いう。
 今、白く咲いている花は、サクランボの花だという。サクランボは花と葉が一緒になっていて、染井吉野の桜とは、感じが違う。
 車で20分乗って谷あいの道を登って行く。山桜の花が、まだ名残りおしそうに赤味をおびて木々に着いている。車は舗装道路から曲がりくねって砂利道に変わって、揺れもひどくなる。
 もうこれ以上登れないというところに、天台寺休憩所の看板を付けた家がある。ここは誰も住んでいないようで、管理は別の家でしている。管理といっても収蔵庫のカギだけをあずかっている。
 ここから寺まで、山一つ登る感じで、急な坂道を登って行く。この山がはげ山で雑木が荒れるにまかせ茂っている。その雑木のあちこちでまだ上手に鳴けない鶯が、うるさいほどに鳴き比べをしていた。
 北国の遅い春といっても、もう田んぼには、水が張ってあったり、耕運機が出たり、田植の準備が進められている。それにしても、この広い田んぼに、もっと人が居ても良さそうなものと感じる。
 昭和29、30年頃にこの寺に仙台から来た住職が、この山のうっそうと茂った杉山の大木を切り売りして、はげ山にしてしまつた。その売った金でやったことといえば、本堂の屋根を銅葺きにしたことくらいで、まるで追剥ぎのごとく、身ぐるみ剥いで行ってしまった。それではという良心がとがめたのか、下着くらいはという気持ちか、屋根だけを銅で葺き替えたという。
 住職は仏に仕えているとの驕った気持ちがあるために、寺のこと、仏のことなどは、二の次で私腹を肥やし、はい、さらばという悪徳住職に遭ってしまった。それでも、こんなへんぴなところに来てくれる住職だからというので、どんなあくどいことをされても、地元の人々は黙っているのだろうか。
 山頂が寺の境内になっており、風雪に耐えてやっと建っているような山門を潜ると、正面に本堂がある。この本堂も風雪に耐えて建っているに違いないが、屋根だけが良くなっている。しかし、下の戸は、今にも破れそうである。
 本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラスが破れて戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
 本堂の裏に収蔵庫が建てられ、これによって辛うじて仏様だけは守られている感じである。

「私の想い」
 そして、今回は「仏像観て歩き」仲間との拝観となった。五〇年の年月の経過を感じる旅となる。山の杉や檜を切り売りして、遣ったことは本堂の屋根を銅葺きにしたことだという。荒れるに任せたままの寺で在ったが、その後、作家今東光や作家瀬戸内寂聴等によって再興されたのである。

「私の想い」
 下の駐車場から長い石段を登り仁王門まで、更に本堂までも長い石段が待っていた。そして、本堂には大きな丸彫りの像が安置されていた。
 菩薩形坐像としていますが、如来のようでもあり、本尊ならば如来でも好いか。本堂裏にある収蔵庫で天台寺の諸仏に逢うことが出来た。先年、東京の世田谷美術館に来た時にも拝観した諸仏である。
 今回の旅は、世田谷美術館の展覧会の後追い的なところもある。更に前の旅は、「日本の彫刻」久野健著作から東北の仏像を拾い出し、天台寺、成島毘沙門堂、立花毘沙門堂を廻ったのである。そのころから比べれば、周りの環境は比べようもないほど整備が進んでいる。
 平成の大合併で大きくなった自治体が多くなったが、その反面大きくなった自治体の文化財保護に関係している担当者の怠惰な姿を感ずる。
 例えば、仏像の安置されたお堂の前に立つ案内板や解説板等が、古くなったままであったり、仏像や建物の解説パンフレットが無かったりしている。それらは所蔵寺院の問題とせずに、地元の人達や地元の小中学校の歴史の勉強に役立てたら好い。
 このところ、関東周辺の国指定の重要文化財を巡る機会が多い。文科省、文化庁、県の教育委員会、市町村の教育委員会による管理がどのようになって居るのか、門外漢には判らないが、末端の担当者が、精力的に活動して管理している寺院の要望を聞くことだ。また、その要望を無視せずに予算化することだ。
 国の重要文化財の簡単な解説書が無くて好いのか。全身像写真の解説パンフレットが無くて好いのか。それで大合併の良さが発揮出来たのか。ボンクラ担当者の怠惰な姿だけではないのか。
大自治体の首長さん達に言いたい、
「わが町の文化財保護はこれで好いのか」
「文化財の解説はどうなっているのか」
と、 担当者の尻を叩けよ。

「私の想い」
 50年前に訪れた時には、次のように書いている。
 山頂が寺の境内になっており、風雪に耐えてやっと建っているような山門を潜ると、正面に本堂がある。この本堂も風雪に耐えて建っているに違いないが、屋根だけが良くなっている。しかし、下の戸は、今にも破れそうである。
 本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラス戸が破れ、木戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
 本堂の裏に収蔵庫が建てられ、これによって辛うじて仏様だけは守られている感じである。
と、書いてある。
 その後、今東光氏や瀬戸内寂聴氏等の尽力や地元の人々の力で写真のように復興されたのである。


「私の想い」
 仁王門から本堂前の石段までの間に、両側に並んだ石灯篭を見たときに寺にも余裕が出来て、境内の整備がされていると感じました。
 50年前には
 本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラス戸が破れ、木戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
と書いたが今とはえらい違いだ。庫裏も綺麗になっておりました。
 収蔵庫脇にある観音塚の桂樹の大きさにびっくりしました。更に別れ際に、本堂前に牡丹の花が、5,6輪が最後の咲き誇りの姿を見せてくれていました。もう1日遅ければという最後の時でした。

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