昭和40年代の5月の連休を使って東北地方の仏像を拝観したのである。夜行寝台車で朝早く駅に着いた。駅名は「上福岡」か「福岡」は忘れたが、東北地方で「福岡」は珍しく思えて、乗り過ごさないように気を付けていた。現在、調べるとその駅名は無くなっている。多分「二戸駅」ではないかと思う。
駅前からタクシーで寺まで行ったのである。人里離れた山の中にあったような気がするが、うる覚えである。しかし、丁度りんごの花が真っ盛りであったのはよく覚えている。
当時の手帳を見て判ったのは、
天台寺 北福岡駅 ナタ彫 十一面、吉祥天
成島毘沙門天 花巻駅 兜跋毘沙門
立花毘沙門 北上駅 毘沙門天
と、書いてある。
夜行列車に揺られて着いた岩手県の北方、北福岡では桜が盛りを過ぎて花吹雪の最中である。改めて、桜前線を思い知らされる。これからりんごの花が咲き、春が本格的にやって来るのだろう。
駅から不案内であるので、まず、タクシーにて天台寺に向う。
タクシーの運転手曰く
「むかしはこの辺りも大雪が降ったのだが、最近は降らなくなった。降ってもブルトーザーで除雪してしまうので、昔みたいなこともなくなった」
と、いう。
今、白く咲いている花は、サクランボの花だという。サクランボは花と葉が一緒になっていて、染井吉野の桜とは、感じが違う。
車で20分乗って谷あいの道を登って行く。山桜の花が、まだ名残りおしそうに赤味をおびて木々に着いている。車は舗装道路から曲がりくねって砂利道に変わって、揺れもひどくなる。
もうこれ以上登れないというところに、天台寺休憩所の看板を付けた家がある。ここは誰も住んでいないようで、管理は別の家でしている。管理といっても収蔵庫のカギだけをあずかっている。
ここから寺まで、山一つ登る感じで、急な坂道を登って行く。この山がはげ山で雑木が荒れるにまかせ茂っている。その雑木のあちこちでまだ上手に鳴けない鶯が、うるさいほどに鳴き比べをしていた。
北国の遅い春といっても、もう田んぼには、水が張ってあったり、耕運機が出たり、田植の準備が進められている。それにしても、この広い田んぼに、もっと人が居ても良さそうなものと感じる。
昭和29、30年頃にこの寺に仙台から来た住職が、この山のうっそうと茂った杉山の大木を切り売りして、はげ山にしてしまつた。その売った金でやったことといえば、本堂の屋根を銅葺きにしたことくらいで、まるで追剥ぎのごとく、身ぐるみ剥いで行ってしまった。それではという良心がとがめたのか、下着くらいはという気持ちか、屋根だけを銅で葺き替えたという。
住職は仏に仕えているとの驕った気持ちがあるために、寺のこと、仏のことなどは、二の次で私腹を肥やし、はい、さらばという悪徳住職に遭ってしまった。それでも、こんなへんぴなところに来てくれる住職だからというので、どんなあくどいことをされても、地元の人々は黙っているのだろうか。
山頂が寺の境内になっており、風雪に耐えてやっと建っているような山門を潜ると、正面に本堂がある。この本堂も風雪に耐えて建っているに違いないが、屋根だけが良くなっている。しかし、下の戸は、今にも破れそうである。
本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラスが破れて戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
本堂の裏に収蔵庫が建てられ、これによって辛うじて仏様だけは守られている感じである。
「私の想い」
そして、今回は「仏像観て歩き」仲間との拝観となった。五〇年の年月の経過を感じる旅となる。山の杉や檜を切り売りして、遣ったことは本堂の屋根を銅葺きにしたことだという。荒れるに任せたままの寺で在ったが、その後、作家今東光や作家瀬戸内寂聴等によって再興されたのである。
「私の想い」
下の駐車場から長い石段を登り仁王門まで、更に本堂までも長い石段が待っていた。そして、本堂には大きな丸彫りの像が安置されていた。
菩薩形坐像としていますが、如来のようでもあり、本尊ならば如来でも好いか。本堂裏にある収蔵庫で天台寺の諸仏に逢うことが出来た。先年、東京の世田谷美術館に来た時にも拝観した諸仏である。
今回の旅は、世田谷美術館の展覧会の後追い的なところもある。更に前の旅は、「日本の彫刻」久野健著作から東北の仏像を拾い出し、天台寺、成島毘沙門堂、立花毘沙門堂を廻ったのである。そのころから比べれば、周りの環境は比べようもないほど整備が進んでいる。
平成の大合併で大きくなった自治体が多くなったが、その反面大きくなった自治体の文化財保護に関係している担当者の怠惰な姿を感ずる。
例えば、仏像の安置されたお堂の前に立つ案内板や解説板等が、古くなったままであったり、仏像や建物の解説パンフレットが無かったりしている。それらは所蔵寺院の問題とせずに、地元の人達や地元の小中学校の歴史の勉強に役立てたら好い。
このところ、関東周辺の国指定の重要文化財を巡る機会が多い。文科省、文化庁、県の教育委員会、市町村の教育委員会による管理がどのようになって居るのか、門外漢には判らないが、末端の担当者が、精力的に活動して管理している寺院の要望を聞くことだ。また、その要望を無視せずに予算化することだ。
国の重要文化財の簡単な解説書が無くて好いのか。全身像写真の解説パンフレットが無くて好いのか。それで大合併の良さが発揮出来たのか。ボンクラ担当者の怠惰な姿だけではないのか。
大自治体の首長さん達に言いたい、
「わが町の文化財保護はこれで好いのか」
「文化財の解説はどうなっているのか」
と、 担当者の尻を叩けよ。
「私の想い」
50年前に訪れた時には、次のように書いている。
山頂が寺の境内になっており、風雪に耐えてやっと建っているような山門を潜ると、正面に本堂がある。この本堂も風雪に耐えて建っているに違いないが、屋根だけが良くなっている。しかし、下の戸は、今にも破れそうである。
本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラス戸が破れ、木戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
本堂の裏に収蔵庫が建てられ、これによって辛うじて仏様だけは守られている感じである。
と、書いてある。
その後、今東光氏や瀬戸内寂聴氏等の尽力や地元の人々の力で写真のように復興されたのである。
「私の想い」
仁王門から本堂前の石段までの間に、両側に並んだ石灯篭を見たときに寺にも余裕が出来て、境内の整備がされていると感じました。
50年前には
本堂の右手にあるもとは、住職が住んでいた家であつたに違いない建物は、ガラス戸が破れ、木戸が破れた廃屋である。何と無残なことかと思わずにいられない。
と書いたが今とはえらい違いだ。庫裏も綺麗になっておりました。
収蔵庫脇にある観音塚の桂樹の大きさにびっくりしました。更に別れ際に、本堂前に牡丹の花が、5,6輪が最後の咲き誇りの姿を見せてくれていました。もう1日遅ければという最後の時でした。
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