開創
寺伝では、天平14年(742)、行基菩薩が諸国巡化の折この地に立ち寄られ、千手観世音像および脇侍聖観音・不動明王の二体を自ら刻まれ草堂に安置されたのが当寺の発祥と伝えられています。
その後、桓武天皇の延暦20年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東奥地方を平定に向かう折当寺において戦勝を祈願したところ誠に霊験あらたか、無事平定でき、帰路再び当寺に寄り、被っていた兜の前立て(鉄鍬形・重文 桃山御陵鎮護神星甲の原形となる)と直刀一口を奉納されたと言われています。
京に戻った田村麻呂は家人を遺して伽藍を建立、落慶供養の導師に当時の高僧空海(弘法大師)を招かんとしましたが入唐のため果せず、帰朝後自ら描いたと言われる金胎両部曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図・重文)を当寺に寄進されたと伝えられています。
中興
足利時代に至って、将軍義政の帰依厚く、三重塔をはじめ三十三の坊舎ならびに三十余の神宇が建立され、総門・鐘楼・本堂などのほか、仁王門からの奥の院観音堂に至る参道の両側に経蔵・三重塔・大日堂・釈迦堂・八将社などが建ち並ぶ七堂伽藍は実に壮観で、法燈高く輝き、法爾普く潤し、鎮護国家の霊場として、「信濃清水寺」の名は全国に知れわたりました。
中興後
文政4年(1821)11月8日夜、奥の院観音堂が焼失、時の住職が再建に努め、天保12年(1841)に落成しましたが、大正5年(1916)5月10日、保科村の大火災の際、当寺も類焼に遇い、一山伽藍・仏像のことごとくを焼失、そこで、同年7月奥の院仮本堂再建許可を得て建設、同時に内務大臣の許可を得て、奈良・石位寺より、二十余体の霊像(うち、千手観世音・薬師如来・阿弥陀如来等五体大正10年国宝に編入される)を移し、大正12年(1923)内仏殿本堂を再建。
また、奥の院観音堂は昭和50年(1975)に、鐘楼は同53年(1978)に、山門は平成3年(1991)にそれぞれ再建され、千二百年の歴史を持つ信仰の地としての復興計画が現在進められております。
「阿弥陀山護国院 清水寺」より 2014年3月
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