仏像名 |
ふりがな せしんぼさつりゅうぞう |
興福寺 |
国宝 |
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世親菩薩立像 |
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様 式 |
承元二年(1208) |
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俗称又は愛称 |
製作材質 |
木造、玉眼 |
樹 種 |
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像 高 |
190cm |
製作者 |
安置場所 |
北円堂 |
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開扉期間 |
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解 説 |
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今日、世親、無著の像と呼ばれる、この像は「猪隈関白記」に詳細な記事があり、また北円堂本尊台座の墨書により、その由諸を知ることが出来る。 それによれば、両像は承元二年(1208)、仏師運慶を頭とし、十人余りの仏師により、北円堂本尊弥勒仏像及び脇侍、四天王像と共に、制作されたものであることが判る。 この文献には、両像を世親及び玄弉(げんじょう)の像としているが、本尊台座の墨書には、世親、無著とあり、興福寺の宗派から考えても、今日の名称の正しいことが判る。 また、かなり多人数の仏師により同時に九体が造られているところから、両像を運慶の作とすることにも一応躊躇されるが、そのかけ離れた優秀な作柄から、同堂弥勒仏と同様運慶を頭とし、運慶等の仏師によって制作されたものと考えられている。 「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より 興福寺北円堂は養老五年(721)、に長屋王によって発願建立されたが、永承四年(1049)焼失、寛治六年(1092)、に再建されたが、治承四年(1180)、の兵火で再び焼亡した。 鎌倉期の再興は承元元年(1207)に発願され、翌二年に造仏が始められて建暦二年(1212)頃までには完成していたものと考えられる。 菩提山専心を勧進とし、運慶が造像の主導者となって子息、弟子などの仏師を率いて制作した、運慶工房総力をあげての仕事であった。その後、大妙相、法苑林菩薩像、四天王像は失われ弥勒仏と無著、世親像が現存している。 本尊弥勒仏の台座の反花内側には、各像の製作を担当した仏師の名が、銘記されている。判読し難い部分も多いが、源慶、康弁、康運、康勝などの名が確認されている。世親像については、運□とあり不明の部分は「賀」とも「勝」とも読まれ、明らかではない。 世親は兄無著と共に四世紀から五世紀頃北インドで活躍した高僧であり、法相教学を開いた祖師として南都、とりわけ興福寺では強く尊敬されている。 しかし、像は祖師的な性格としてよりも、本尊弥勒仏の両脇侍的役割が強調され、無著像と二体で一対の像として、その表現も両者が全く対称的に示されている。 無著が老人であるのに対し世親は壮年で現され、無著が慈悲的、抱擁的に観者へ視線を注ぐのに対して、世親は、意思的、集中的に遠方の一点を凝視している。 そして、その性格描写がこの上なく、見事なリアリズムを通じて表現されており、運慶工房の造形力の極めて高かった事を示すばかりでなく、この像は日本彫刻史の上でも屈指の優作に数えられている。 「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より |
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私 の 想 い |
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胸には何もない。右手の手の平で無い物に添えて、左手の平に物を乗せている様に上にしている。 |
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世親菩薩立像 |
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