仏像名

しゅんじょうぼうちょうげんしょうにんざぞう

東大寺
制作年代

国宝
鎌倉時代

俊乗房重源上人坐像

様 式

弘安四年(1281)

俗称又
は愛称

製作材質

木造、玉眼
彩色

樹 種

像 高

81cm

製作者

安置場所

俊乗堂

開扉期間

解 説

本像は、東大寺の鐘楼脇に建つ俊乗堂に安置されている。俊乗房重源上人は、法然上人の高弟で、治承四年東大寺炎上後の再興事業にあたり、諸国を普く勧進し、その功を遂げた人である。建久六年(1195)、三月十二日、天皇行幸の下に、供養を営み建永元年(1206)、に入滅した。
 この像は、その菩提を弔うために弟子等がよって、造立したと伝えられている。制作年代は、建永元年を余り隔たらぬ頃のものであろう。
 作者は不明であるが、その優れた写貌の手法より考え、また、鎌倉初期の仏師達の活動の中心地であった東大寺と俊乗上人との関係からしても、康慶一派の第一流の彫刻家の手になったことは、想像に難くない。ほぞんは、たいへん良好である。
「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より

この風貌はよほどの高齢で、肉体もやせ細っている。それにも関わらず、鋭い眼光や、への字に結ぶ口元などは、像主の強固な意志力を暗示し、それを表現し得て妙である。恐らくしかるべき巨匠の作であろう。
 俊乗房重源は紀季重の子で、はじめ醍醐寺の円明院に入って密教を学んだが、のち念仏門に入り、更に四国や大和の名山霊地を巡って修業した。
 宋国へ三度も渡り、天台山をはじめ各地を暦遊し、また土木建築の技法を修得して帰ったといわれる。治承四年(1180)、の兵火で焼亡した東大寺の再建にあたり、重源は大進職に任じられ、諸国を巡行して布施をつのり、かねて造寺・造仏・写経などの作善と社会福祉的な活躍によって、民衆の教化に努めた。
 その努力の結果、東大寺は見事に再興、建仁三年(1203)、に総供養を遂げた。重源の生涯の事績は、いわゆる聖としての性格を強く示しており、東大寺の復興において、最も良く、その才能が発揮されたと見られる。
 宿願を遂げて、建永元年(1206)、この世を去った。重源の肖像は、すでに在世中から作られていたと考えられる。
 中国阿育王山の舎利殿造営のたま、重源は材木を寄進すると共に、自分の木像と画像の二つを送ったという南無阿弥陀仏作善集の記事は、そのことを証する。
 日本に現存する木像でも、山口阿弥陀寺並びに三重新大仏寺のものは、それぞれ重源が両寺を建てて活躍していた頃に作られたらしい。
 像に現れた年齢が、前者よりも後者にやや年長を思わせるのも、両寺建立の年代の差と合致する。姿も共に坐形であるが、前者が合掌するのに対して、後者は両手を握っている。
 ところが重源の没後に、供養のために作られたと思われるものが、奈良東大寺俊乗堂の像である。
 これは一段と年老いて、恐らく最晩年の風貌を伝えるものであり、しかも両手で念珠をまさぐって座り、姿も前の両像と違う。兵庫浄土寺の像は、これに似た形相をそなえ、その写しであろう。
 以上の様に、重源の像には、形相上いろいろのものがあった事が注目される。恐らく、在世中の像には、まだ宗教的な礼拝像の意味は少なく、かなり自由に写生されたからであろう。
 しかし没後になると、東大寺と浄土寺の例からも、察せられる様に、ようやく形も定まり、礼拝的な意味を加えて来た事を、思わせるものがある。
「日本の美術 肖像彫刻」 至文堂 1967年より

 東大寺俊乗堂には、この重源上人像と、上人ゆかりの深い快慶の造った阿弥陀如来像とが祀ってある。俊乗坊重源は東大寺大仏再興の勧進上人で、不屈の意志とたくましい実行力とでこの大事業をやってのけた。
 その肖像彫刻は他にも幾つか残っているが、建永元年(1206)、に上人が没して間もない頃に造られたと思われるこの像は、中でも最も優れ、理想化の全く無い写実的追求が、上人晩年の面影を生き生きと写し出している。快慶の手になるかと思われる。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より

私 の 想 い

 本当の名前は俊乗坊重源というのだろうが、ある時は俊乗上人といい、またある時は、重源上人と言うので、それぞれ別人と思っていたら、同じ人である。偉人はいろいろな名前を持っているので、それらを一つ一つ覚えないといけない。
 資料を調べて判ったのは、肖像彫刻で俊乗坊重源の国宝がこの東大寺の像であり、重要文化財で三重、新大仏寺のもの、兵庫、浄土寺のもの、山口、阿弥陀寺のものがある。いずれも、老境に入ってからの像で4像ある。
 興正菩薩叡尊像は西大寺のものと、奈良、白亳寺のものが重文で2像ある。その外に重文には指定されていないが、西大寺の末寺には、興正菩薩叡尊像がたくさん存在する。この二人の時代的には、俊乗坊重源上人は、1206年に入滅している。興正菩薩叡尊は1200年生まれであり、直接の関係はなかったのだろうが、時代が彼らを必要としていたのである。
 また、二人の足跡を残した寺に、弟子達によって像が造られるという事も共通点であるし、東西両大寺を再興させたという共通点もある。どの像も優しいおじいちゃんである点も共通している。
 平成22年10月に東京国立博物館で「東大寺展」として出陳されたときに俊乗坊重源上人坐像を拝観しました。
 俊乗坊重源上人と興正菩薩叡尊の共通点を探して見ました。一つ目は、愛染明王像を手元に置いて信仰していたということである。二世代前か、三世代前の偉い人である重源の真似をしたといえなくもない。そのために叡尊が身近な仏師善円に愛染明王像の制作を命じて、彫らせ手元に置いて信仰していた。これが西大寺の愛染明王坐像である。東大寺にも同じ俊乗堂に重源の愛蔵の愛染明王坐像がある。
 二つ目は、当代屈指の仏師を抱えて、たくさんの仏像の制作を命じて残していることである。重源には快慶がおり、叡尊には善円(後に善慶を名乗る)と善春親子が着いている。更に自身の像が関係の末寺にたくさん残っていることである。二人の究極は後世に残る大仕事を残していることである。
 右手を上に、左手を下にして胸の前で、輪になった数珠を握り繰り出している。口をへの字に結んで念仏を口ずさむ。襟元からにゅっと首を出す。
 作者は不明とのことだが、個人的には、運慶ではないかと思う。南大門の金剛力士像を棟梁として、短期間に仕上げた実績を高く評価され、重源の関係者からも信頼を得て制作したものと思われます。師弟関係の深さからは快慶に一歩譲るとしても、作風からは快慶よりも、むしろ運慶に分がある。老人を彫ったことでは快慶は、大報恩寺の目健連像、優婆離像などがあるが、いずれも作風が違う。一方運慶は、多分この後に制作したのが、北円堂の無著、世親像である。風貌や精神性のある作風からして、私は運慶の作と決めている。更に付け加えれば、快慶の作品では四角い面相と顎が横張ったところに特徴がある。この俊乗坊重源上人坐像は顎が細い。
 今回の特別展には、快慶作品が三像も来ているので、類似点を比較するのに絶好の機会である。

俊乗上人坐像画像一覧その1
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俊乗上人坐像
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