薬師寺東院堂の本尊として、同堂仏壇上の厨子の中に安置されているのが、この聖観音像である。額の上のところに、もと化仏が着いていたらしい穴があり、この標識から観音像として造顕されたことが判る。
この像の伝来については、全く記録がない。今日この仏像が安置されている東院堂は、吉備内親王が、元明天皇のために、養老年間(717〜723)に建立したものと記されている。
ところが、平安時代に薬師寺をたずねた、大江親通は、「七大寺巡礼私記」の中で東院は、八角堂で丈六の釈迦像を安置してあると書いている。この記事から、少なくとも平安時代には、同堂の本尊ではなかったことが判る。聖観音像が、東院堂の本尊として記される様になるのは、今日知られている文献だけからいえば、江戸時代からである。
しかし、その作風は、印度美術の影響を受け出した、唐のはつらつとした様を伝え、白鳳時代の製作と考えられている。
金銅造で、鍍金を施し、頭髪、眼、唇に彩色を施してあったもので、今日もわずかに美しい色が残っている。額の上の化仏と、天衣の一部、台座の蓮弁を失っている他は、保存状態も良い。光背は、近世の補作である。
「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より
この像は、先の薬師三尊に比べると、裳を通して脚の曲線が透けて見えるような表現や直立形の姿勢などは、やや古風であるが、やはりそのプロポーションや顔付きには、新しい唐の影響がうかがえる。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
東金堂の本尊。宝髻を高く結い、条帛、裳を着け、天衣をまとい、胸飾り、瓔珞などの装飾を着け、通例の観音像とは逆に右手を垂下し、左手を上方に屈臂して直立する。地髪部には枘孔があり、化仏として阿弥陀如来が取付けられていたらしい。
正面から見ると、若々しい青年のような表情と相まって、体躯も非常に引締って見えるが、側面にまわると肉身の重厚さが見る者を圧倒する。その表現は写実的な造形の完成に近付いてはいるが、筋肉の微妙な凹凸に欠け硬さの残る肉体表現や、衣の表現などに金堂薬師如来像の両脇侍像との違いが認められる。
また、裳裾が左右に広がった古様な衣文の形、直線的な鼻の形、鎬立つ人中、眉や唇の鑿の入れ方などに、飛鳥時代後期、いわゆる白鳳期の特徴を残している。だが、上瞼を直線的、下瞼を凹形に表わす事(白鳳仏の場合はこの逆)、鋳造に際して外型と中型をつなぐ型持ちに釘付きのものを用いていること、包み中型とすることなど様式、技法的に金堂三尊と共通する点があり、両者は相近い時期に製作されたと見る意見が多い。
その時期については、飛鳥時代後期の旧山田寺仏頭や七〜八世紀の中国彫刻との比較をはじめとする様式的な研究が、明治時代以来進められているが、なお定説を見ず、天武・持統朝に製作された、本薬師寺像を移したとする説(白鳳説)と、平城薬師寺の創設後に造られたとする説(天平説)の大きく二つに分かれている。
東院堂の前身は、長和四年(1015)の」「薬師寺縁起」に引用されている流記によると、養老年間(717〜724)、長屋王の室である吉備内親王が元明天皇のために創建した東禅院とされる。天平説では、この東禅院の本尊として養老年間に製作されたと見るのが有力であるが、薬師寺の伽藍整備計画の中で、金堂をはじめとする中枢伽藍の造営年代や、元明天皇のために造られた東禅院の造営とそれらの前後関係が問題とされ、更にそれに伴って金堂三尊と本像の製作時期の先後が論じられている。
「特別展 大和古寺の仏たち」 東京国立博物館 1993年より
東院堂の本尊。このお堂は、養老年中に元明天皇のために建立されたと「薬師寺縁起」に記される。現在の堂は鎌倉時代に再建されたものであるが、この像が創建時からの本尊かどうかは不明である。
鋳造技法は金堂三尊像と同様で、鋳上がりはみごとである。しかし形式や作風は金堂日光・月光菩薩立像と大分異なる。腰を捻らず直立する姿勢、腹部が肥満せず、なだらかな線で腰のふくらみを表わす肉身、裙の両側に鰭状に張り出す衣の襞が左右対称に整えられ正面観が強調される。
膝下方に反復されるU字形の衣文は、写実を意図したものでなく、左右対称にすることと、上下の空間をほぼ等間隔に刻んでリズム感を出す点にあるだろう。
正面下腹部、背面腰および裙の裾に表わされた衣の襞は品字形、裾の打ち合わせ部、左右に鰭状に垂れる紐の先の鋸歯文風の衣文など飛鳥時代前期につながる古い表現である。
唇も飛鳥時代の仏像のアルカイックスマイルに近く、人中も鎬立つ鼻筋も小鼻も鋭角的で日光・月光像のような柔らかさ、弾力性に富むふくらみは少ない。それは衣の彫りでも同様で、天衣・裙など日光・月光像の柔らかな質感表現に対して、平板である。
頭髪の毛筋も蜜蝋に棒で筋を引いただけのようで、日光・月光のように一筋ずつ丸みをつけるように仕上げていない。作風からみると総じて日光・月光像より古様である。
しかし、胸の豊満な肉付きや伸びやかなプロポーションとバランスのよさはやはり中国彫刻の新しい波を受けてのものである。
七世紀後半に造られた法隆寺・銅造夢違観音像、同・銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)よりはずっと進んだ表現を取り入れている。
髻の前方に化仏を挿したとみられる枘穴がある。日光・月光像のような頭部の正面および左右側面の三箇所に飾りを着けるいわゆる三面頭飾を採用せず、髻の両側面に唐草の団花文を表わすのはめずらしい。腹部の正面および背面から放射状に広がり、膝辺中央で体から遊離する垂飾は、はなやかである。
この像と日光・月光像の制作時期があまり変わらないとみられる点は重要である。つまり、この頃の仏像の作風は多様だったことを物語るだろう。
「国宝 薬師寺展」より 東京国立博物館 2008年
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