岩手県水沢市にある黒石寺は、妙見山と号する天台宗の古刹である。寺伝によれば、天平元年(729)、に行基によって開かれ、当初の寺名は東光山薬師寺と称し、三論宗系であったという。
奈良時代から平安初めにかけてのみちのくでは、東北制覇をめざす中央政府と、蝦夷と呼ばれる人々との間に激しい戦いが行われたが、延暦二十一年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂の率いる大軍が蝦夷軍を制圧して、現在の水沢市に胆沢城を築き、東北開拓の橋頭堡とした。
この胆沢城から隔たること約12kmの所に黒石寺がある。伝承では、大同二年(807)田村麻呂が飛騨の工匠に命じて、久しく衰微していた堂宇を再興した。その後、嘉祥二年(849)、に東北地方を巡錫した慈覚大師円仁が、寺の北側にある大師山の岩屋で一夜座禅し、寺を中興して天台宗妙見山黒石寺としたと伝えられる。大師山は、寺名の由来となった黒石(蛇紋岩)に覆われており、円仁が坐禅をしたという洞窟も残っている。
盛時は伽藍48宇を数えたというが、野火や兵火など5度の火災ですべて焼失した。現在の本堂と庫裏は明治の再建であるが、平安前期の本尊薬師如来坐像や四天王像、十一世紀の作だが古風を強く留める伝慈覚大師像(重文)などの多くの優品を伝える。
毎年旧正月7日夜から翌朝にかけて行われる蘇民祭は、無病息災・五穀豊穣を願う裸祭りとして全国に知られている。「裸参り」「柴燈木登り」「別当登り」「鬼子登り」とつづき、午前5時ごろから始まる「蘇民袋争奪戦」では、厳寒をものともせず、裸の男たちが小間木という護符を入れた「蘇民袋」を奪い合う。最後に袋の首をつかんでいた者が、最も大きなご利益を受けるという。
「古寺を行く 瑞巌寺とみちのくの名刹」より 小学館 2002年
黒石寺は、天平元年(729)行基菩薩の開基で、東光山薬師寺と称したが、延暦年間の征伐の戦火にあい寺は焼失した。大同二年(807)飛騨の(今の岐阜県)の工匠が方七間の薬師堂を再建し、嘉祥二年(849)慈覚大師円人が復興して、妙見山黒石寺と改名した、天台宗の古刹である。盛時には、伽藍四十八宇を越えたといわれる黒石寺も、弘長元年(1261)の野火、天正十八年(1590)の兵火、そして天保十一年(1840)祭火、更には明治十四年(1881)と火災にあい、伽藍の一切を焼失し、現在の本堂と庫裏は、明治十七年(1884)に再建された ものである。
本尊は、薬師如来坐像で、胎内に貞観四年(862)の造像記があり、古代東北の仏教信仰を伝える貴重な作例である。また、旧正月七日夜半から八日早朝にかけて行われる「黒石寺蘇民祭」は、東奥の奇祭として知られ、男性的壮観の絵巻物であり、古代のまつりの姿を今に伝える、貴重な民族的遺産である。
「妙見山 黒石寺」縁起小冊子より 2012年
千百年の伝統を誇る 黒石寺蘇民祭
旧正月七日夜半から八日早暁にかけて行われる、厳寒積雪中の裸祭りで、災厄消除、五穀豊穣を祈願する。祭りは次の五つの行事から成る。
*夏参り(裸参り、祈願祭ともいう・午後十時〜)
厄年連中や、一般祈願の善男善女がそれぞれ蝋燭を灯した角燈を持って、瑠璃壷川で身を清め「ジョヤサ、ジョヤサ」の掛け声で、薬師堂から妙見堂を三巡して、災厄消除、五穀豊穣を祈願する。
*柴燈木登り(ヒタキノボリ)(午後11時半〜)
本堂前に、長さ五尺の松の木を井桁積みにして火を点じ若者はこの上に登って火の粉を浴びて身を清め、厄を払い一同で山内節を歌って気勢をあげる。
*別当登り(午前二時〜)
住職が、蘇民袋を従えて本堂に登り、災厄消除、五穀豊穣の護摩を焚く。
*鬼子登り(午前四時〜)
七才の男子二人が麻布をつけ、鬼面を逆さに背負い大人に負ぶさり本堂に登る。鬼子が本堂に入った後、住職が外陣に出て曼荼羅米をまく。ついで、外陣中央にある護摩台に燃え盛る松明が置かれ、鬼子がこの周りを三度巡る。
*蘇民袋争奪戦(鬼子登り終了後〜)
将軍木で作った長さ三cm位の六角柱の小間木(蘇民将来=護符)五升がぎっしりつまった蘇民袋を裸の若者たちが奪い合う。開始後間もなく袋に刀が入れられ中の小間木が飛び散るが、この小間木を持っている者は、災厄をまぬがれるといわれ、競って手に入れようとする。
争奪戦は二時間余りに及び、審判役の親方が取主(最後に袋の首の部分を握っていた者)の判定を下して祭りは終わる。
「天台宗古刹 妙見山 黒石寺」小冊子より 2012年5月
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