仏像名 |
びしゃもんてんりゅうぞう |
峰定寺 制作年代 |
重文 平安時代 | |||
毘沙門天立像 | ||||||
様 式 |
久寿元年(1154) | |||||
俗称又 は愛称 |
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製作材質 |
木造、切金文様 彩色、玉眼 |
樹 種 |
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像 高 |
50cm |
製作者 |
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安置場所 |
本堂 | |
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開扉期間 |
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解 説 | ||||||
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私
の 想 い | ||||||
不動明王の三像とセットで造られたという。右手に戟を握り、左手の手の平に多宝塔を載せる。不動三尊像とこの毘沙門天像の四躯を鳥羽法皇から献じられたという。 京都でも峰定寺は北方に位置し、毘沙門天を祀るには最適の場所である。京都市内を守る最初で最後の位置と云える。贈り主もその辺の事情が解っての贈り物なのである。一つ山を越えると、越前の小浜である。日本海から小浜に上陸し、京都経由で奈良に入る道が百済から奈良に到達するには、一番の近道なのである。もう少し、菩薩像+新スタイル守護神(不動明王像+毘沙門天像)を取り入れている寺院の研究をしないと結論は出せない。 長野・牛伏寺のスタイルは、中尊が十一面観音立像で右脇侍、毘沙門天像の左脇侍、不動明王像の三尊構成である。長野の松本市と言えば、北からは塩の道と言われた地域で、日本海で採れた塩が信濃の山間部にもたらされた道である。脅威というよりも生活道路的な面が考えられ、不向きである。戦国時代の武田信玄的に考えると、宿敵越後の上杉謙信の脅威には、この新スタイルがぴったりと当て嵌まる。塩の道も謙信時代に有った事である。果て扨てどうした物か。 |
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