仏像名 |
せんじゅかんのんりゅうぞう |
峰定寺 制作年代 |
重文 平安時代 | |||
千手観音坐像 | ||||||
様 式 |
久寿元年(1154) | |||||
俗称又 は愛称 |
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製作材質 |
木造、切金文様 素地 |
樹 種 |
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像 高 |
31cm |
製作者 |
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安置場所 |
本堂 | |
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開扉期間 |
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解 説 | ||||||
峰定寺は久寿元年(1154)、二月、平清盛が三滝聖人西念の隠退の寺として、造営した寺で、三間堂を建て、そこに像高31cmの白檀製千手観音像を安置した。 西念は武門の家に生まれたが、二十五歳の時剃髪し、諸国の名山を巡礼したり、天台宗で行なういろいろな苦行を体験したりした。 西念はいわゆる聖で、正式には受戒していなかったらしい。西念の験力に対する声望は極めて高く、保元元年(1156)、鳥羽法皇が危篤になられた時、近代無双の行者と云われ、召し出されて法皇のそば近くはべり、また同時に法皇の妃美福門院の戒師にもなった。 清盛はこの聖人に心服していたので、父祖の代からの西国経営で、支配権を握る様になった外国貿易により、容易に入手出来た貴重な白檀をもらい、当時第一流の仏師にこの千手観音像を造らせ、これを聖人に献じたのである。 この千手観音像は、白木のままの表面に截金で文様を貼り付けた檀像で、宝相華文(ほうそうげもん)で飾られた光背、台座を完備し、和様彫刻の発展の極地を、感じさせる様な出来映えを見せている。 山林の浄所に隠退した験力の誉高き聖人の念持仏にふさわしい仏像である。 「京都の仏像」 淡交社 1968年より | ||||||
私
の 想 い | ||||||
坐像の千手観音像である。若い千手観音さんで可愛い。賢いお顔のお嬢さまである。平清盛が財力に任せて白檀の千手観音像を西念に献じた。そして、その守護神像は鳥羽天皇が献じた。 守護神に毘沙門天像と不動明王像を配した新しい方式が採用されたのである。従来の四天王像や梵天像、帝釈天像と違った新方式である。中尊に菩薩像を置き、左右に不動明王像と二童子像を置き、毘沙門天像とした。菩薩+不動・毘沙門=新方式の守護神スタイルなのである。 中尊には、千手観音像や十一面観音像がなったりしている。この新スタイル方式を延暦寺の横川方式という。天台系の寺院にこれ以後取り入れられたのである。 そして、長野・松本市の牛伏寺にもこのスタイルの守護神が取り入れられている。そこで、東国に橋頭保として、静岡韮山に進出した運慶は、これを変じた如来+守護神(不動三尊?+毘沙門天)に置換えて願成就院に採用したのである。如何にも、東国武士に相応しい祀り方である。何故なら、東国武士の一番の脅威は、北方の蝦夷であるからなのだ。これに対して、毘沙門天像を配する何んぞ、将に鬼に金棒なのだ。運慶して遣ったりである。 |
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